【1862冊目】『明石海人歌集』
「癩は天刑である」
明石海人の歌集『白猫』の序文は、こう始まる。「癩」とはハンセン病のこと。今では治療法が確立し「治る病気」となったが、彼の生きた時代は不治の病であった。治療薬としてプロミンの有効性が報告されたのは1943年。海人の死後4年が経っていた。
小学校の教員であり、二児の父でもあったが、25歳で発症し、職を辞した。明石楽生病院入院を経て、家族と別れ独居した。その間に、次女が、わずか二歳で死んだ。腸炎だった。海人はその死に立ち会うこともできなかった。
已にして葬りのことも済めりとか父なる我にかかはりもなく
入退院を繰り返すうち、明石楽生病院が閉鎖。岡山県の長島愛生園に入所し、39歳で生涯を閉じるまでをそこで送った。その間、詩歌に本格的に開眼し、『日本歌人』に入社した。歌人として将来を嘱望され、死の年に刊行された歌集『白猫』は大評判となった。だが一方では、病のため視力を失い、気管切開を行った。病状はひたすら悪化していた。
人の世の涯とおもふ昼ふかき癩者の島にもの音絶えぬ
拭へども拭へども去らぬ眼のくもり物言ひさして声を呑みたり
まともなる息はかよはぬ明暮を命は悲し死にたくもなし
歌人として卓越した才能をもっていたことは間違いないだろう。大岡信は「もし長寿を保ったなら、昭和時代を代表する大歌人となったろう」と言ったという。ハンセン病にまつわる歌ばかりが注目されるが、それ以外の短歌の水準もきわめて高い。特に惹かれたのは、ダイナミックで力強い作品だった。
星の座を指にかざせばそこここに散らばれる譜のみな鳴り交す
海ぞこのかがやくばかり銀の銭ばら撒きをれば春のまひるなれ
夜をこめてかつ萌えさかる野の上にいちめんの星はじけて飛びぬ
夕づけば七堂伽藍灯りつつさくらひと山目をあけてねむる
だが、そのことを踏まえた上で、やはり明石海人ならではの歌となると、ハンセン病を外して考えることはできない。類稀な才能の持ち主が、同時に病の当事者となったことで、他の誰にも詠めないような作品が次々に生み出されたのだ。匹敵するのはおそらく石牟礼道子の水俣だろうが、それでも石牟礼自身は、水俣病の患者そのものではなかった。
眼も鼻も潰え失せたる身の果にしみつきて鳴くはなにの蟲ぞも
息の緒の冷えゆく夜なりまどろみつつすでに地獄を堕ちゆくひととき
霧も灯も青くよごれてまた一人我より不運なやつが生れぬ
盲いては幾年ならむ明暮を己が顔さへ思ひ忘れぬ
ふうてんくるだつそびやくらいの染色体わが眼の闇をむげに彩る
ところで、冒頭に掲げた「癩は天刑である」にはじまる『白猫』の序文は、このように終わる。この言葉を、いったいどのように受け止めればよいのか、何度読んでも、私には見当もつかないのだ。
「齢三十を超えて、短歌を学び、あらためて己れを見、人を見、山川草木を見るに及んで、己が棲む大地の如何に美しく、また厳しいかを身をもつて感じ、積年の苦渋をその一首一首に放射して時には流涕し時には抃舞しながら、肉身に生きる己れを祝福した。人の世を脱れて人の世を知り、骨肉と離れて愛を信じ、明を失つては内にひらく青山白雲をも見た。
癩はまた天啓でもあつた。」