【1476冊目】齊藤史『齊藤史歌文集』
- 作者: 斎藤史
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2001/09
- メディア: 文庫
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齊藤史の名前を初めて知ったのは「松岡正剛の千夜千冊」だった。
歌集『記憶の茂み』が書かれた692夜は2003年1月だから(なんと10年前!)、リアルタイムではなく、たぶん他の本からリンクで辿り着いたのだと思う。
とはいえ、強烈なパンチを食らったのはその歌論ではなく、冒頭の「齊藤史なんて知りませんでしたという事情は、許されない」という一文だった。この一文はこう続く。「齊藤史をはずして現代短歌は毫も語れない」
だからといってすぐ齊藤史の歌集を探したわけではなかったが(当時は現代短歌そのものにほとんど気分が動かなかった)、それでもいろんなアンソロジーなどで「齊藤史」の名が目に入ると、なんだかおそろしいものを見るような気分でその短歌をながめたものだ。最近になっていよいよ気になり、手に取ったのが本書(書店にこれしか置いてなかった)。選り抜きの傑作がおよそ400首、本書にもテーマごとに分けた上で掲載されている。
歌集というのは、散文のように続けざまに読むワケにはいかない。なにしろ一首一首が超高濃度に濃縮された世界そのもののようなものだから、一気飲みには向いていないのだ。本書に収められている随筆にも、こんなふうに書かれた箇所がある(紹介がアトサキになってしまったが、本書は齊藤史の「歌集」+「随筆集」だ)。
「もともと短詩型というのは、奔放に外に広がろうとするものを凝縮し、整理して、うたうことにまで密度を高めようとする、豊饒と抑制との相剋を含む芸術である。形式の奥には言葉にしなかった多くのものがくりたたまれていなければならない。またときには抑えに抑えたことばのうらみが、尾を引いてひびくところが余情にもなるのだが、それを受け取るかどうかは読者の能力にまかせるしかない」(p.140)
だから一首一首、「読む」のにやたら時間がかかるのだが、そのうち気付いたのが、三十一文字を何分間眺め、味わってみようとも、結局決め手になるのは最初に読み下した時の印象だ、ということ。特にこの人の歌は、不意に襟首をつかまれたような迫力があるものが多いので、なかなかそこから抜け出すことが難しい。たとえばこんなのはどうか。
さかさまに樹液流れる野に住んでもくろむはただに復讐のこと
暴力のかくうつくしき世に住みてひねもすうたふわが子守うた
首のなきらかんを見れば首のあるらかん共こそあはれなりける
本書は第一部が歌集、第二部が著者とチャボとの交流を描いたハートウォーミングな「ちゃぼ交遊記」、第三部が日々のよしなしごとを綴った「遠景近景」、そして第四部が父とのことを綴った「おやじとわたし」となっている。
核になるのはやはり冒頭の400首だろうし、母の介護の日々を綴った熾烈なエッセイもすばらしいが(この人の人生は子供の世話、脳血栓で入院した夫の世話、そして91歳まで生きた母の世話と、とにかく苦労尽くし、世話尽くしの生涯だった)、なんといってもびっくりしたのは、軍人歌人だった父を偲んだ「おやじとわたし」だった。なにしろ史の父、齊藤瀏は、予備少将ながら2・26事件への関与を問われ、禁錮5年の判決を受けたのだ。
父だけではない。死刑となった栗原安秀中尉、坂井直中尉は家族ぐるみで付き合いが深く、栗原中尉など「クリコ」なんていうあだ名で呼ばれていたほどだったらしい。彼らに死刑判決が下った日、父は自分の監房で、2人の「遺書」が書かれた紙屑を拾ったという。2・26事件についての評価はさておき、その文面を読むと、やはり理想に散った青年将校たちの切なさを感じずにいられない。それはこんなものだったという。
「お世話になりました。ほがらかに行きます 坂井」
「おわかれです。おじさんに最後のお礼を申します。史さん、おばさんによろしく クリコ」
こういう体験がどういうカタチで齊藤史という歌人をかたちづくったのか、そこには安直な判断を拒むものがあるが、それにしても次のような短歌を読むと、戦争というもの、天皇というもの、時代というものへの一言では語り切れぬ思いが、それこそまさに「豊穣と抑制との相剋」の中に詰まっているのを感じる。
みなさんはこの歌から、どんな印象を受けられますか。
知らざるうちに叛乱の名を負はされゐしわが皇軍の蹶起部隊は
幻の命令の行方聞く手段さへあらず 弁護人持たぬ軍法会議
敗戦にまぎらして〈叛乱〉の語を消去せし国家のなしたるごま化しも見き
銃殺の音ならねども野の上に威銃ひびけば眼の前くらむ
思ひやる汨羅の渕は遠けれどそれを歌ひし人々ありし
血紅の木の実踏まれて惨たれば血塗られし昭和また終るべし
ある日より現神(あきつかみ)は人間(ひと)となりたまひ年号長く長く続ける昭和