自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【1768冊目】カズオ・イシグロ『夜想曲集』

夜想曲集: 音楽と夕暮れをめぐる五つの物語 (ハヤカワepi文庫)

夜想曲集: 音楽と夕暮れをめぐる五つの物語 (ハヤカワepi文庫)

音楽を横糸、男女の関係を縦糸に織り成される、オトナのための短編集。「老歌手」「降っても晴れても」「モールバンヒルズ」「夜想曲」「チェリスト」の5篇が収められている。

冒頭の「老歌手」では、フリーのギタリストである「私」が、ベネチアで往年の大歌手トニー・ガードナーに出会い、ある頼まれ事をされる。それは、心の離れつつある妻のためにゴンドラの上から歌を届けたいので、その伴奏をしてほしいというものだ。

しかし、トニーには、妻との関係はもう元に戻らないと分かっている。むしろ自分から妻と離れ、妻に新しい人生を歩んでほしいと願っている。それでもなお、妻リンディのために歌を捧げる老歌手の心情が、読むほどにじわりと読み手の心に浸みこむ。

「(妻は)ああやってわしが歌うのを聞いて喜んだと思う。だが、もちろん、悲しんでもいた。わしも同じだ。二十七年というのは長い。今回の旅行のあと、わしらは別れる。これは夫婦として最後の旅だった」(p.46)


ちなみにこのトニーの妻、リンディ・ガードナーは、4つ目の短篇「夜想曲」に再登場する。しかもこちらはユーモア満載のドタバタ・コメディ。整形手術を終えて包帯で顔をぐるぐる巻きにした「私」とリンディが、たまたま患者用に確保されたホテルで隣の部屋になるのだ(もちろんこの「私」は「老歌手」のギタリストとは別人)。そして、リンディが「私」のために盗みだしてきたトロフィーを元の所に返そうと、夜中のホテルをうろついていろんなトラブルを引き起こす。

この短篇が面白いのは、自分の才能にうぬぼれて孤高を気取るジャズミュージシャンの「私」が、才能などろくすっぽないくせいに「テレビ出演の積み重ね、派手な雑誌の表紙を飾ることの積み重ね、プレミアショーやパーティで伝説的人物と腕を組んでいる写真の積み重ね」でセレブになったリンディを最初は軽蔑しているが、それが徐々に変わっていくところ。金儲けや「メジャーになること」を軽蔑する「私」に、リンディは最後にこう語りかける。

「……人生って、誰か一人を愛することよりずっと大きいんだと思う。あなたはその人生に出ていくべき人よ、スティーブ。あなたみたいな人はその他大勢と一緒にいちゃだめ。わたしをご覧なさい。この包帯がとれたって、はたして二十年前に戻れるかどうかなんてわかりゃしない。それに独身だったときなんて、もう大昔だしね。でも、わたしは出ていって、やってみる」(p.254)


ここで第一話「老歌手」でトニーが語るリンディと、このリンディがぴったり重なり合う。音楽というもの、才能というもの、そして「有名になる」こと、「大物になる」ことの意味。若者の勢いだけの野心ではなく、人生の酸いも甘いも噛み分けた人物からの言葉は、だからこそ重い。

そしてそのことは、残りの3つの作品にも通じるものがある。人生の夕暮れに感じる、若かりし頃への憧憬と、ほろ苦さと、ちょっぴりの後悔と、心の揺らぎ。若者が読むにはもったいない、ビターな「大人の味」の五篇。