【1586冊目】高木卓『露伴の俳話』

- 作者: 高木卓
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 1990/04
- メディア: 文庫
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幸田露伴が身内相手に開いた俳句指導の会の記録。録音したわけでもないのに、露伴のべらんめえ調のトークと俳句添削が臨場感たっぷりに記されていて、まるで講義の実況中継のよう。
私自身、俳句をひねったことなんてほとんどないが、それでも本書はべらぼうに面白かった。句を詠んでいるのは、著者も含め露伴の身内であり、力量はほとんどシロウト同然。だがその素人目にもヘタな俳句が、露伴がちょちょっと朱を入れただけで、まるで別物のように変身する。ちなみに露伴の身内ということで、あの幸田文(文子)や青木玉(玉子)もチラリと登場するが、さすがに露伴の前では赤子同然の扱いである。
では、添削例のうち印象が強かったものをいくつか挙げてみる。カッコ内は露伴のコメントだ。
年の瀬や琴をつまびく誰が家
↓
誰どのの家ぞ琴ひく年の夜
(「誰が家」では小さいから「誰どのの家」でお屋敷風に。「年の瀬」より「年の夜」のほうがふくみがでる)
灯台の白の著さよ春の海
↓
灯台の真白う春の海青し
爆音はかなたに消えぬ春霞
↓
飛行機のあと一天のかすみかな
(爆音だけじゃなんだかわからねえ。「かなたに消えぬ」じゃのろくてまだるっこい)
木枯や村はづれなる石地蔵
↓
木枯や首のとれたる石地蔵
(「村はずれなる」じゃ曲がねえ。もう少し考えてみるんだな)
切り張りや禅尼の恋のしのばるる
↓
切りばりや老いのしわ手に日のあたる
(まるで小学校の読本だし、唯しのぶなんぞもおもしろくない)
前の句と後の句を比べて、違いが歴然なのが分かるだろうか。せいぜい数語を変えただけで、むだやゆるみがなくなり、焦点がぴたりと合って、しかも情景が格段に豊かで深くなる。
さらに、合間合間にはさまれる露伴の俳句論がすばらしい。俳句のみならず文章全般に言えることばかりだ。例えばこんな感じ。本書に関しては、生半可な紹介より引用したほうがいい。露伴のべらんめえ調の味わいと共に、どうぞ。
「〈願わしからざる言葉〉つまり俊成のいう〈庶機すべからざる言葉〉は、用いちゃァいけねえ。わるくはないが決してよくはない、そういう言葉だ」
「ともかく、いろいろ動かしてみることが肝要だ。いわゆる〈ためて見る〉というので、ためて見たあとでやはり初めのほうがいいこともあるが、なおしたほうがふつうはもちろんいい」
「句は、はっきりしたのもよし、幽玄なのもいいが、歩いて、動いて、ためて見る、そういう工夫や鍛錬が必要だ。こうして句ができて、それにみずから確信がもてたらいいのだ」
「句がわれているのもよくない。どっちが主ともつかない二つの重点があるような、〈われる〉のはよくない」
「いやなことばは、ねりなおす工夫をしなきゃいけねえ。俳諧はことばのものだからだ。本ももっと読まなきゃいけねえ。我流じゃ一つとこばかり歩くことになる」
さらにその前後に、露伴一流の博学があふれんばかりに盛り込まれるのだから、これはこたえられない知の贅沢というものだ。しかも露伴の知は、江戸以前からの日本の知がそのままの形で息づくものばかり。明治以降の知識人の借り物の知とは違う、肌身にしみついた細部の博識だ。本書はそうした知識を活き活きと記録したという意味でも、稀有の一冊である。
「夜店は〈ひやかす〉のじゃねえ、〈あさる〉のだ。ひやかすのは遊郭だ」
「仙人の洞窟の前に白梅があって、水がその洞から桃をうかべて流れてくるのを『碧桃』とよんだ詩があるが、こういうふうに白桃を碧桃とすればいかにも仙人らしくなるので、ここらが中国人のつかまえどころだ」
「筆の鋒がながくなったのは柳公権あたりからだ。そのころの諸葛の工の筆はいまはねえ」
「香にァ六国五味があり、〈きゃら〉〈らこく〉〈まなが〉〈まなばん〉〈さそら〉〈すもだら(スマトラ)〉これが六国で、甘辛酸鹹苦、これが五味だ」
「紙では、墨の李廷珪と並ぶのァ澄心堂の紙だ。五代の末、唐のときすでに名があった」
「芭蕉は一生杜甫の詩をしょっていたが、蕪村は、芭蕉が杜甫や西行をつかったから、自分はほかのものにくいついた」
ちなみに、私は図書館で借りて読んだのだが、本書はすでに絶版らしい。ここにしか書かれていない、日本人の失われた「知」がたくさん詰まった一冊なのに。
まったく、本書は単なる俳句の指南書ではない。晩年の露伴の知の精髄を生きたまま詰め込んだ貴重な一冊だ。ぜひぜひ、復刊をお願いしたい。