【1465冊目】幸田文『みそっかす』
- 作者: 幸田文
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1983/09/16
- メディア: 文庫
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40代になって幼少期の思い出を綴った一冊。実は、幸田文が最初に書いた本でもある。
あの幸田文が、という気もするが、文章にはずいぶん苦労したらしい。本書のおわりに綴られた「みそっかすのことば」には、こんなふうに書かれている。
「書くことはどっさりあるようにおもえた。むらがり躍って、あの時この時がよみがえった。けれども鉛筆を持つと、それらはすうっとどっかへ行った。思いというものが霧のようなもので、鉛筆というものが陽のようなものと悟ったが、そんなことを悟ってもなんの足しにもならず毎日は過ぎて行き、鉛筆はいたずらに尖ったままに、紙はひっそりと白いままに、私は緊張したりぽかんとしたりしていた」(p.210)
この文章自体がすばらしい名文であるが、この本のどこをとっても、初めて書かれた本(もともとは雑誌の連載記事だったらしいが)とは思えない、きらめくような文章の綾が波打っている。しかしそのさりげなくも美しい文章がどのように生れてくるか、私はこの言葉を読んで悟った気がした。
幸田文の文章は、たしかにするすると読みやすい。名文なのだが、名文らしさを感じない自然な文章である。だが、こういう文章ほど書く方は大変だ。なめらかで読みやすい文章ほど、実は苦心惨憺、七転八倒の末にようやく生みだされるものなのだ。上の文章は、たぶん幸田文の本音だろうと思う。
それにしたってこの本が初めての著作とは、しつこいようだが信じがたい。だが、一方でまず幼少期のこと、とりわけ偉大な父のことを正面切って書いておかなければ、その先に進むことはできなかったんだろうな、とも思えてくる。
言うまでもなく幸田文の父は明治の文豪、幸田露伴である。文豪にもいろいろあるが、私の感覚ではもっとも近寄りがたく、もっとも威厳と畏怖に満ちているのがこの露伴だ。
とにかく、露伴は近寄る隙がない。その博識は底知れず、その含蓄は海の深さ、それでいてどこか飄々としていてとらえどころがない。作品を読めば読むほど、ただひたすら畏怖し、畏敬するのみなのだ。
ところが本書は娘の視点から父の姿を暴きだしており、露伴が一挙に身近に思えてくる。特に露伴と再婚相手(文にとっては継母)との確執はものすごい。クリスチャンで気丈夫で、それにけっこうエキセントリックだったらしいこの女性は、父とはしょっちゅうケンカばかりだし、文にもいろんなところでつっかかってきたという。その裏には「先妻の子」を扱いかねる戸惑いもあったと文が気づくのは、ずいぶん後になってからだったようだ。
一方、文のほうにしてみれば、父の後妻への感情の裏側には、5歳で失った「ほんとうの」母の面影がある。母の死は本書の最初のほうで出てくるだけだが、継母のつれない仕打ちや奇矯な言動を非難めいた目で見る文の心の奥底には、おそらくずっとその喪失感があったのだろうと思う。そのことについてはほとんど一言も触れられていないが、だからこそふと、文章の網目の裏側のあたりで「母の不在」を探してしまうのだ。
文自身の子ども時代も面白い。なにしろ「あの」幸田文が、男の子にもつっかかっていく子ども仲間のボス的存在であり、しょっちゅう生傷をこしらえていた天性のおてんば娘だったのだ。でも案外、人の成長というのはそういうものかもしれない。その頃につちかわれた気概と芯の強さが、おそらく生涯にわたって文を支えていったのだろう。
露伴の素顔と文の原点を知る一冊。