【1409冊目】石川淳『紫苑物語』
- 作者: 石川淳,立石伯
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 1989/05/05
- メディア: 文庫
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表題作のほか「八幡縁起」「修羅」を収める。
どれをとっても、おそろしい小説である。とりあえず、ほかの形容が思い浮かばない。酷薄なまでに的確無比な描写、この世のものとあの世のものがひとつながりとなった世界観、人間の悪が人間を超えるギリギリの緊迫感。読んでいて、なぜか思い出したのが坂口安吾の「夜長姫と耳男」であった。この小説の怖さは「そのレベル」に達している、ということだ。
日本の中世を舞台にした「紫苑物語」では、国の守である宗頼がすさまじい。弓矢の名人であるがなぜか狩となると矢が当たったためしがない。子狐の化身となって現われた女性、千草と交わりつつ、狐の神通力で家臣の陰口や罪咎を知るようになる。やがて無実の家臣まで手にかけるようになった宗頼は、むしろ「生ける人の背に矢を射たてる」ことそのものが目的になっていく。死体は庭に埋められ、その上には紫苑が植えられた(だから「紫苑物語」なのである)。
そんな宗頼は、山中で自らの写し身であるかのような平太に出会い、平太が崖面に彫った仏のすがたを射ると宣言する。宗頼は三本の矢を続けざまに射る技を身につけ、平太の仏像の顔を射落とす。しかし宗頼自身もまた、断崖に落ちていく。
血に飢えた宗頼と山奥で仏を彫る平太は、明らかにネガとポジ、一人の人間の陰と陽が二つに分かれた存在である。それも、主人公である宗頼が「陰」であり「悪」、平太が「陽」であり「善」。しかしここでは決して、善は悪に勝たない。そんな単純な構図ではないのだ。むしろ善と悪は一体のものであり、一方が滅びればもう一方も滅びる。だからこそ、宗頼は仏像の顔を射たがゆえに、断崖に落ちねばならなかったのだ。
「八幡縁起」は古代の、日本神話の世界。古事記を思わせるストーリーは骨太でずいぶんとごついものだが、「唯一の大神」という発想はなんだか一神教じみていて面白い。もちろんここでの唯一とは、他の神の存在自体を否定するというよりは、他の神をおしのけて君臨するのが大神である、といった意味合いであろう。「八幡」というより、それ以前の名もなき神々の時代をそのままに描き、その流れのまま後世まで話を運んだ一作。
「修羅」は、人と馬が交わって産まれたらしき美しい女性、胡摩(コマ=駒?)を中心に展開される戦国初期(室町末期)の物語だ。一休宗純をはじめ実在の人物も多数登場し、筋書きも相当に入り組んでおり、他の二作に比べかなり周到にプロットが組まれているという印象を受けた。胡摩に一目ぼれした足軽の大九郎、アウトローの部落を仕切る古市弾正らが暴れまわるという、これも「悪」のつよさと美しさを描いた作品。なかでも、その中を飄々と生き抜けていく一休宗純の存在感が格別だ。
史実と虚構が入り混じり、セックス&バイオレンスが乱れ飛び、妖術や超能力が絡み合う。この小説観、この世界観が、後に半村良や夢枕獏らの、いわゆる伝奇小説のルーツになったのだろう(もっとも本書自体、雨月物語や南総里見八犬伝などの、江戸時代の文芸をルーツにもっていると思われる)。血がしたたるような、無慈悲なまでに鮮烈な3篇。一度は読んでみると良い。