【1402冊目】岡田英弘『歴史とはなにか』
- 作者: 岡田英弘
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2001/02
- メディア: 新書
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E・H・カーの名著『歴史とは何か』とほぼ同じタイトルだが、中身は基本的に別モノ。かなりエッジの利いた歴史論である。
新書だが、中身はたいへんに濃い。数ページおきに目からウロコがぼろぼろ落ちる。いわく、世界には歴史のない文明がある。revolutionを「革命」、augustusを「皇帝」、feudalismを「封建」と訳したのはすべて誤訳である。「古事記」は日本書紀よりずっと後につくられた、歴史の時代区分には「古代」と「現代」しかない。中国の朝貢は単に「外国君主や部族長個人から皇帝個人への贈り物」にすぎず、服属関係でもなければ貿易でもない……。
そもそも世界は、偶然の積み重なりによって変化しているにすぎない。しかし人間はその変化をそのままで理解することはできず、何らかの方向に沿って叙述しようとする。それこそが歴史なのであって「もともと筋道のない世界に、筋道のある物語を与えるのが、歴史の役割なのだ」(p.144)と著者は喝破する。
そして、こうした歴史を「自前」で用意することができた文明は、実は世界に2つしかない。それが中国文明と地中海文明である。しかし、両者が綴った歴史のありようは、ほとんど正反対と言ってよいものだったという。
中国文明の歴史は、司馬遷の『史記』にはじまる。そのキーワードは「正統」である。司馬遷の主君、武帝の統治が神話の時代からつらなる正統性を有することを明らかにしようとしたのが『史記』であり、この「正統」という発想が、その後の中国を貫いた歴史観になった。
こうした歴史思想で重要になるのは、その継続性である。実際の中国は、革命によって統治者がコロコロ変わり、むしろ継続性は寸断されまくっている。だがそこをどうにかこうにか、新たに皇帝となった人物もまた、新たに天命を受けた「正統の天子」であると理屈づけ、そうした「正統」のリレーの結果として今の皇帝がいる。その証拠として欠かせないのが、中国における歴史書なのだ。
ところでこの歴史観って、実は日本の歴史観とよく似ている。正確には、日本の歴史観は中国のそれを受け継いでいるのである。典型的なのが『日本書紀』であり、これは神々の系譜から天皇の歴史までを「ひとつながり」で綴った歴史書である。つまり天皇という君主の正統性を保証する、という歴史観が、日本には存在するということになる。むしろ、革命による断絶をほとんど経験していない日本に、この歴史観はベスト・フィットだった。
一方の地中海文明は、まるで違う歴史観をもっていた。その創始者はヘロドトスである。ヘロドトスは「世界は変化するものであり、その変化は政治勢力の対立・抗争によって起こる」「かつて強大であった国の多くが今や弱小となり、今は強大である国もかつて弱小であった」といった主旨のことを書いている。これがヨーロッパ歴史観の原点だ。
さらに、ここに重なって来たのが古代ペルシアのゾロアスター教であった。ゾロアスター教の教えによると、世界では光(善)と闇(悪)が戦っており、いずれは光が闇を打倒して理想の世が実現する、と説いた。これがユダヤ教やキリスト教に流れ込み、終末論や千年王国の思想となり、果てはマルクス主義の史的唯物論に結実した、と著者は言う。
なんだかずいぶんダイナミックな議論であるが、「世界のあるべき理想的な姿」を想定し、その段階に至る「前の状態」として現在を理解するという考え方は、確かに両者に相通ずるものがある。古代からの「正統」のつながりを意識する中国文明とは、まったく逆の発想と言ってよい。
なお、面白いのはこのマルクス史観がなんともう一方の歴史観の本家本元、中国に流れ込んだというところなのだが(したがって中国的な「正統」の歴史観は、むしろ日本のほうに承継されていると言えるかもしれない)、このあたりについては残念ながらあまり詳しくは触れられていない。
他にも国民国家をめぐる議論(国民国家成立前の歴史を国民国家の考え方で語ることには無理がある)、民族という概念がなんと「日本でできた」(p.164)という指摘など、近代史、現代史を考える上でも根本的に重要な発想がたっぷり盛り込まれた本。中身の薄い新書ばかりが世に出る中、実がぎっしりの充実の一冊としてオススメしたい。