【1333冊目】佐藤栄佐久・開沼博『地方の論理』
- 作者: 佐藤栄佐久,開沼博
- 出版社/メーカー: 青土社
- 発売日: 2012/03/14
- メディア: 単行本
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福島県知事時代、原発をめぐって東電や経産省とバトルを繰り広げた佐藤氏と、『「フクシマ」論』で、福島出身者の目から見た原子力ムラと日本社会を描いた開沼氏の対談。親子どころか祖父と孫ほどに年の離れた二人が、地元の福島を通して日本の「中央」と「地方」のゆがんだ構図を明らかにしていくスリリングな一冊だ。
3・11の福島第一原発事故についてももちろん触れられているが、本書のメインはむしろその前の時期。佐藤氏の現職知事時代の話を中心に、氏が肌身で感じた「中央」と「地方」という感覚の落差を開沼氏が聞き取り、自身の考えをそこに挟み込むというスタイルで進んでいく。
東京生まれの人間として耳に痛いのは、「中央の論理」の横柄と傲慢を両者が指摘するくだり。なにしろ「一見『良かれと思って』の善意からの判断だったり、合理的な解釈だったりをしているようでも、それは地方を他者化、つまり、起きている事態を『ひとごと』としてしか捉えていない上で成り立っている論理にすぎない」(p.61〜62)というのである。しかしこの指摘、霞が関や永田町だけでなくメディアや「有識者」にもあてはまる。それを不自然だと思わずに聞いていることの多い私などもまた、同罪か。
こうした中央官庁や政治家のロジックに対し、佐藤氏の知事時代の実践のなかに立ちあらわれているのが、本書のタイトルにもなっている「地方の論理」である。それは佐藤氏がかつて取り組んだ原発再稼働反対の動きはもちろん、環境問題やジェンダーに対する県独自の取り組みにもつながっている。こうした佐藤氏の考え方の基本にあるのは、「中央」のお仕着せや押し付けに甘んじるのではなく、イコール・パートナーとしての立場に立って国に相対していくという発想ではなかろうか。
面白いのは、そうした佐藤氏のスタンスが実は本当の意味での「保守本流」であるという池田香代子氏の指摘。それを開沼氏は、エドマンド・バークの思想を参照しつつ「過剰に人間の理性を信じずに、自然にそこにあるもの、伝統や自然環境を生かしながら政治を行っていく」(p.78)姿勢であると表現する。
確かに、霞が関や永田町における「中央の論理」は、ある意味では理性や合理性への過剰な信頼のもとに成り立っているといえる。自民党は「保守」を謳ってきたが、皮肉なことに、その中央支配の根本思想に近いのは、むしろフランス革命的な「革新」の発想なのだ。それに対し、本来の保守とは、机上の空論を排し、現実と折り合いながら漸進的にものごとを進めていくものなのだ。そして、それはまさに「地方の論理」そのものであり、地域に根差した本来の地方自治の姿そのものであるはずなのだ。
また、実は本書が一番ラディカルでカッコイイのはここなのだが、この「地方の論理」を突き詰めていくと、なんと「地方−中央」という対比そのものの否定にまで至ってしまう。それを見事に表現しているのが、本書に紹介されている福島県浜通りの農民詩人、草野比佐男の「中央はここ」という詩だ。それはこんなふうに始まる。
東京を中央とよぶな
中央はまんなか
世界のたなそこをくぼませておれたちがいるところ
すなわち阿武隈山地南部東縁の
山あいのこの村
続きはぜひ本書でお読みいただきたいのだが、つまりは佐藤氏が言うように、いわゆる「地方」の人々が「中央や中心を外に求めること自体おかしい」(p.92)のだ。むしろ草野氏が言ったように、日本中のどの土地でも、自分のいるところこそが中央だと考えるべきなのである。そして、いかなる地方自治も地方分権も、ここから出発しなければならない。「地方」という呼び方にしても、そろそろ変えるべきなのかもしれない。
したがって、それぞれの地方が「中央」として、独自の「地方の論理」をもっていけばよいのである。「地方から日本を変える」なんて言わずとも、「地方が地方であるままで生きていけるような」(p.215)あり方を目指せばよいのである。
興味深いのは、それが「強さ」の論理ではなく「競争からこぼれ落ちるものをいかに掬い取るのか」(同頁)という共生の発想に立つという点だ(開沼氏はそれを「弱さではない」というが、私はむしろ「弱さの論理」を堂々と主張したほうが面白いと思う)。強い中央が地方を束ね、さらなる世界の「強さ」であるグローバリズムや帝国主義と戦う時代から、弱い地方がその弱さを論理として掲げ、多様性と共生の思想で人々を包み込んでいく時代へ。3・11を経てわれわれが向かうべき未来とは、そういう方向にほかならないのではないか。本書を読んでもっとも強く感じたのは、そのことであった。