自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【1149冊目】鴻池朋子『インタートラベラー 死者と遊ぶ人』

インタートラベラー 死者と遊ぶ人

インタートラベラー 死者と遊ぶ人

『焚書』でちょっと興味をもったアーティスト、鴻池朋子の作品集。2009年に東京オペラシティで開かれた「鴻池朋子展 インタートラベラー 神話と遊ぶ人」で展示された作品を収めているらしく、市販しているものではあるが、要は展覧会の図録のようなものなのだろうか。もっとも、図録のなかにはあまり市販されないものもあるので、こういうのはありがたい。

さて、覗いてみると、のっけから、富士山に大きな顔が描かれた「隠れマウンテン」に驚く。巨大で優美な富士山と、女性のものとおぼしき「濃い」顔立ちの異様なハイブリッド。見ていて心がざわめくというか、「何だこれは!」的なインパクトがある。

「何だこれは!」といえばなんといっても岡本太郎御大であるが、鴻池さんのアートは、そういえばどことなく岡本太郎に似ている気がする。いや、アートとしては完全に独自の世界をもっているのだが、その「ぎょっとする感じ」というか「内臓に響く異形性」というか「美しさとグロテスクの共存」というか、いわゆる日本的な「美の世界」にまっこうからケンカを売っている感じがすごく似ているように思うのだ。

作品については、上に挙げた展覧会のHPがリンクしてあるので、そちらをご覧いただくのが早いだろう。とりあえずチラ見しておいて、興味を惹かれたら、個展がひらかれるのを待って駆け付けるしかない。それはともかく、興味深いのはこの人の文章だ。「死者と遊ぶ人」というタイトルの小文が載っているのだが、ここにはこんなことが書かれているのである。

「言葉が未発達な時はヒトと他者との明確な境目が概念上なく、みな『連続』していた。例えばヒトと動物との間でワタシという主語が行ったり来たりする。ワタシは犬であり、犬はワタシであるというように、人間がいかようにも(人以外のものにも)為り変わることが起こりえた。神話ができたのはその『連続性』が言語によって失われようとする頃だ」

「そろそろ『自分』という文字の中には何も入ってないのだということに気づいて、己で閉じてしまった部屋の扉を開けてみないか」

「旅人は目の前の作品(もの)と対峙しているはずなのに、自身の想像力を介して見えないものと交信をし始める。秩序とデタラメ、美しいと穢ない、心と体……諸々の境界を超え、その旅人だけの固有な想像力が相互往還という固有な体験をしているのだ」

「ものをつくるとは人間や自然への奉仕ではなく、自分の心臓の片隅でひっそりと眠っている死者を呼び覚ますことだ」

う〜ん、いいですねえ〜。……最後のフレーズをあらためて読んで思ったのだが、この人の作品世界、小川洋子の小説にもどこか似ているかもしれない。

焚書 World of Wonder 岡本太郎 爆発大全 寡黙な死骸 みだらな弔い (中公文庫)