自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【1148冊目】リチャード・ドーキンス『利己的な遺伝子』

利己的な遺伝子 <増補新装版>

利己的な遺伝子 <増補新装版>

『遺伝子の川』を読んで、もう少しだけドーキンスに突っ込んでみたくなった。

調べてみてあらためて驚いたのは、著作が思ったよりたくさんあり、しかもどれも分厚いこと。そうか、『遺伝子の川』は例外だったのね。

で、結局選んだのがこの古典的な一冊。かなり身構えて読み始めたのだが、おやおや、案外面白いではないか。読みやすいとまでは言わないが、論理のペースにいったん乗ってしまえばどんどん読める。とにかく説明がうまいのだ。メタファーやレトリックも巧みだし、論理性もしっかりしている。数式も図表もないのに(図解はいくつかあったほうが良かったように思うが)、文章だけでこのややこしいテーマをこれだけ理解させるというのは、なかなかできることじゃない。

ただ、その「説明のうまさ」がこの人の場合、かえって災いしている面があるかもしれない。分かりやすく伝えようとするあまりの擬人化や比喩が、そのまんま読み手に入ってしまうのだ。だいたい、タイトルの「利己的な遺伝子」というコトバ自体、考えてみればややミスリーディングではないか。

『遺伝子の川』でも書いたが、当然のことながら、遺伝子そのものには意志も思考もない。なのに、「利己的」と書かれてしまうと、それだけでなんとなく遺伝子自体に意志があり、人間をあやつっているようなイメージが生まれてしまう。確かにドーキンスが言うところによれば、生命は遺伝子にとっては「生存機械」であり、その最大の使命は遺伝子の存続である。しかしそれは、遺伝子がそうしようと思っているわけではなく、そういう機能をもった遺伝子が結果的に残ってきているという、言ってみればある種の結果論にすぎない。

ついでに言えば、遺伝子は生物の行動をその都度指示しているわけではない。遺伝子自体はマスター・プログラマーにすぎない、と著者は言う。そのプログラムがうまく作動すれば、その遺伝子は存続する。失敗すれば、その遺伝子は乗り物である生存機械(つまり「生命」)ごと滅びるため、存続しない。動物の利他的行動や子殺しなどの一見理不尽にみえる行動は、すべてその中で説明がつくと著者は言う。

その「戦略」を説明するにあたり、ドーキンスが導入するのが、メイナード・スミスがゲーム理論において提唱している「進化的に安定な戦略」(ESS:evolutionarily stable stragtegy)だ。ゲーム理論については本書で一章を割いて詳細に解説しており、ネット上でもいろいろ情報はあると思うのでここでは解説しないが、ESSとは、簡単にいえば、その個体の生存にとって最善の戦略プログラムのことをいう。それがどんなものかは、その個体と周囲の個体の置かれた相互関係によって決まってくる。

もうひとつ、本書で意外だったのは、ミームという概念について、ドーキンスがかなり思い入れたっぷりに解説していることだった。ミームは「文化遺伝子」などとも呼ばれ、人間の文化を後世に伝える「自己複製子」を意味する。もっとも、これは遺伝子のように実体があるものではない。むしろ抽象概念に近いのだが、ドーキンスは遺伝子を超える人間原理として、このミームを大真面目で提唱している。

ドーキンスの主張といえば「人間は遺伝子を運ぶための機械にすぎない」なんていう血も涙もないものだけだと思っていると、この部分はかなり面食らうだろう。なにしろここでは、彼は「現代人の進化を理解するためには、進化を考える際に遺伝子だけをその唯一の基礎とする立場を、まず放棄せねばならない」(p.295)なんて言い出すのである。だが、やや批判的に言えば、結局ドーキンスがここで一章を割いて述べているミーム論が、「利己的遺伝子論」の中にうまく組み込まれていないように思える。それほどに、どうも本書全体の中で、このミーム論は浮き上がって見えてしまう。

いずれにせよ、本書でドーキンスはこれまでのエソロジーの成果を、遺伝子という観点から総点検しているように思われる。その結論には賛否あろうが、今までの生物学やエソロジーが「生命」「生物」にあてていた焦点を「遺伝子」に当て直すという発想は、なんだかんだいっても生物学界の大きなパラダイム・シフトをもたらしたことには変わりない。生物学の古典として、読み継がれるべき一冊といえるだろう。