hachiroetoの読書ノート

この世の片隅でこっそり書き続けています。一応自治体職員。仕事は福祉系。読書は雑食系。

【672〜674冊目】白川静『桂東雑記1〜3』

桂東雑記〈1〉

桂東雑記〈1〉

桂東雑記2

桂東雑記2

桂東雑記〈3〉

桂東雑記〈3〉

晩年の白川静がいろいろなところに綴った文章や対談を集めた「桂東雑記」全5冊のうち、前半3冊。

おなじみの文字解説から短歌論、東洋文化論まで、内容はとても幅広いが、これまでの白川東洋学の精華が随所にきらめいている。印象に残る部分も多いが、特に漢字がなぜ中国で「発明」されたか、という説明が興味深い。そもそも白川漢字論においては、「文字はもともと、人が神と交信する手段である」とされている。したがって、人と神が多く密接にかかわりをもつところほど、文字が発達する。それは言い換えれば、神の名において人が人を支配する神権政治である。それも、絶対的な権限をもつ統一王朝が神と交信しながら臣民を支配する、という強大な国家でなければならない。弱小な国家では、体系をもった文字が完成するのを待つことなく、国家そのものが滅びてしまうからである。

このことはひるがえって、「日本が独自の文字をもたなかったこと」の理由にもなる。たしかに古代日本においても統一的な国家は存在したが、それは絶対的な神聖王朝ではなかった、神権政治ではなかったのである。独自の交信方法によって神と交通する必要がなかったのだ。ひょっとしたらそのことは、アニミスティックで多神教的な日本人の宗教観と、どこか通じているのかもしれない。

白川静は「日本人は宗教を卒業している」という。生まれると神社に参り、七五三を祝い、結婚式は教会で、亡くなると仏教式の葬式という、これで違和感がない。だからといって、こうした行事に何の意味も感じないということではない。やはりそれぞれに、どこか神さびた、神聖なるなにものかを感じている。ただそれを一神教的に理詰めで押し切らず、他の宗教を排斥せず、なんともなしに共栄共存している。こうした状況は、欧米人からみると奇異そのものかもしれないが、これこそが日本人の宗教感覚なのである。

一方、伝統の断絶ということに対しては、たいへん強い危機感をもって語られている。特に第2巻の石牟礼道子氏との対談が面白い。もともと、日本人は漢字を輸入するにあたり、音読みと訓読みという2つのパターンで文字を読み、すでに日本にあった言葉を意味ベースで漢字にあてはめて訓読みすることで、見事に日本語と漢字を融合させた。漢字はそういう面では、日本の「国字」であるという。そういう文字状況のもと、日本人は万葉集古今集源氏物語等々からなる文化の流れ、伝統の流れを作り出し、その上に新たな文化的発展を積み重ねてきた。しかもこうした文化的遺産というのは、単に日本だけの産物ではなく、中国から朝鮮、日本へと続く、アジアの文化や伝統の流れがそこに集積しているのである。

しかしそれが今や大きく断絶し、戦前の日本にまで続いてきた日本の、そして東洋の文化の流れが断ち切られてしまっている。それは、過去と現在の途中に障害物があって、それが流れを妨げているのだと白川氏は語る。それを除くことで過去が見える。古典文化を通じて日本の、そして東洋の姿が見える。そして、過去が見えれば未来も見えてくるのである。今は過去が見えず、歴史も伝統も見えず、そのため未来もまた見えなくなってしまっている。これでは、日本人は刹那的にいまを生きるほかはなくなってしまうだろう。