【433冊目】なだいなだ「TN君の伝記」

- 作者: なだいなだ,司修
- 出版社/メーカー: 福音館書店
- 発売日: 2002/09/20
- メディア: 文庫
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伝記なんて読むのは小学生以来だろうか。本書もおそらく小学校高学年から中学生あたりを対象としていると思われる。版元は絵本を出版している福音館書店である。しかし、内容はあなどれない。
だいたい書き手が、ユニークな著作の多い精神科医のなだいなだ氏である。その時点で「タダの伝記ではない」ことは容易に想像がつく。しかも伝記なのに当の主人公がイニシャルである。ちなみに「TN」とは「中江兆民」なのだが、本書ではこの名前は、実は一度も出てこない。すべて「TN君」で一貫しているのである。こんな伝記があるだろうか。
組み立ては伝記だけあって非常にシンプルである。中江兆民の生涯を時系列順にたどりつつ、その周辺の事情を描写していくだけだ。しかし、本書で面白いのは、実は周囲の描写のほうであった。中江兆民が生きた時代とは、黒船にはじまり明治維新、新憲法公布、国会設立、日清戦争と、まさに激動の時代である。本書はその時代の動きを、中江兆民という、時代に深く関わった人物の眼から実にリアルに、丁寧に描写する。そのため、本書はそのまま、明治時代の政治や社会のテキストといってよいくらいである。特に、自由民権運動に関わり、ルソーの「社会契約論」(民約論)を抄訳した兆民の視点であるから、明治維新の中途半端ぶりとその後の混乱や強権政治ぶりが容赦なく暴かれていく。
ひとつだけ気になったのは、前に読んだ「一年有半」で示されているような文楽への傾倒がまったく触れられていなかったことであった。「一年有半」では、その政治や社会への鋭い視点と義太夫へののめりこみが渾然一体となっていた。そこに「東洋のルソー」というだけでは片付かない兆民像があり、その渾然一体ぶりにこそ何かの秘密というか兆民という人間の本質が隠れているような気がしたのだが。