自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【2560冊目】ピエール・ルメートル『監禁面接』

 

監禁面接

監禁面接

 

 

企業の人事部長まで務めたアラン。50代でリストラされ、再就職の望みもかなわないまま、はや4年。アルバイトで食いつなぎつつエントリーした一流企業で、思いがけず最終試験に残る。だが、その内容はとんでもないものだった。指示されたミッションは「就職先企業の重役会議を襲撃せよ」……

 

前代未聞の「再就職サスペンス」。一歩間違えばとんでもないバカミスになりかねない題材だが、それが迫真のサスペンスになっているのは、50代で職を失ったアランの心情、家族との関係、アルバイト先でのトラブル等を丁寧に描き、ムチャクチャな「課題」に応じざるを得ないところまで時間をかけて追い込んでいるからだ(このあたりの「意地の悪さ」はさすがルメートルである)。

 

だが、そこからは急転直下。予想もつかない展開が次から次へとやってきて、とてもじゃないけど読むのをやめられなくなる。これは海外ドラマ向け(「次回に続く」の瞬間、ゼッタイに先を観たくなる)だと思っていたらやはりのこと、すでにNETFLIXが全6話でドラマ化していた。さすがの嗅覚である。

 

それほどまでに、最初から最後まで、一切の先読みを次々と裏切っていくプロットの妙がたまらない。そして、もうひとつ本書の「読みどころ」となっているのが、富める者はいよいよ富み、貧しいものはいよいよ貧しくなる圧倒的な格差社会の残酷さである(どうやらフランスも例外ではないらしい)。最底辺からの一発逆転を狙ったアランは、それによって、一番大事なものを失ってしまう。そのことは最初からあからさまに示されているのだが、アランがそれに気づくのは、すべてを手に入れたかに見えた本書のラストなのである。

 

だが、アランと共に、アランの視点でこの小説を読んできたすべての読者は、彼にはそうするしかなかったことがすでにわかっているのだ。相次ぐどんでん返しの中に散らした中年の悲哀のスパイスの切なさがたまらない、絶妙のサスペンス。ドラマもぜひ見てみたい。

【2559冊目】本田秀夫『発達障害』

 

 

発達障害と一口に言っても、自閉スペクトラム(ASD)や注意欠如・多動症ADHD)などさまざまなタイプがある。そうした様々なタイプの「重複」がテーマである、と「はじめに」に書かれているので、やや専門的な内容かと思っていたが、読み終えた時点での印象としては、発達障害に関する基本的な事柄をていねいに取り上げた一冊。ASDやADHDなどがもつ特徴についても、しっかり解説されている。

 

そもそもこうした重複の存在を著者が強調せざるを得なかったのは、発達障害の診断や支援の現場で、個々の類型にあてはめて対象者を理解するといった対応が行われていることが多いためと思われる。もちろん、そのこと自体は相手を理解するための「手すり」として必要だ。しかし、それが行き過ぎると、かえって相手の特性を見誤り、支援がうまくいかないといったことになりかねない。そこで、複数の類型の「重複」といった考え方、捉え方を補助線として引く必要が出てくる。

 

本書の前半は、こうした「重複の事例」の解説がメインだが、一方後半では、発達障害の特性に応じた「環境調整」の方法や、当事者自らができる発想の転換のパターンを数多く紹介している。こちらもたいへん重要な内容だ。

 

まずすべての基本となるのは、「苦手な能力の底上げより、その部分を補完する方法を考える」ことである。著者はここで「黒板を釘でひっかくような音」を例に挙げる。「黒板を釘でひっかく音が苦手? だったら、何度も聞くことで克服しましょう!」と言われたら、あなたならどう感じるだろうか。発達障害の人にとっての「苦手」とは、実はこのくらい克服が難しい、生まれつきの特性なのだという。

 

だったら「苦手な部分を補完する」にはどうすればよいか。ひとつのポイントは、その特性をそのまま「強み」として捉えて活かす方法を考えることだ。たとえば、不注意でミスをしても気に病むことがなく、ミスを繰り返してしまう人は、「うまくいかなくてもへこたれない」という強みをもっているとも言えるだろう。そのため、営業職などに就けば、商談を断られてもめげずに次の相手に挑戦することができるかもしれない。もちろん事務上のミスは避けられないだろうが、「自分はミスが多い」ことをあらかじめ周囲に伝えればある程度はカバーできる可能性がある。その上で、へこたれずめげないという「得意分野」を活かして貢献することを考えればよい。

 

あるいは、興味の対象がすぐに目移りしてしまい落ち着きがないという人はどうか。これを長所として捉えれば「思い立ったらすぐに行動に移せる」「行動力やアイディアが豊富」ともいえるだろう。そのため、新たな企画や事業を立案する部署なら活躍できるかもしれない。もちろん、ある程度形になったら、別の人に引き継いで完成してもらえばいいのである。

 

そううまくいく事例ばかりではないだろうが、大事なのはこうした柔軟な考え方を、当人だけでなく周囲の人たち(特に人事系の人たち)がもつこと、そして多様性を大事にすることだ。だからこそ、著者は発達の特性を「なんらかの機能の欠損としてとらえるのではなく、『〜よりも〜を優先する』という『選好性(preference)の偏りとしてとらえたほうが自然なのではないか」(p.212)と指摘するのである。

 

こうした選好性を持つ人は、確かに全体からすれば少数だろう。だが、そうした少数派のためになんらかの配慮ができる社会、個性のデコボコが当たり前に存在する社会のほうが、実は多くの人にとっても生きやすいのではないか。発達障害の人たちによって試されているのは、ひょっとするとわれわれの社会そのものなのかもしれない。

【2558冊目】高田衛『八犬伝の世界』

 

 

南総里見八犬伝』を読み解いた一冊。2005年、ちくま学芸文庫で「完本」が刊行されたらしいが、今回読んだのは、古書店で入手した1980年刊行の中公新書。だいぶ内容が組み替わっているらしいので「完本」もそのうち読んでみたい。

 

曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』は、ダイジェスト版を子どもの頃に、白井喬二の現代語訳バージョンを数年前に読んだきり。それも江戸時代の伝奇小説、エンタメとして読んだだけだった。そこにいろんな意味を読み込むという意識自体がなかったわけなのだが、著者によれば、こうした小説を単に著者の空想の産物として捉えること自体が近代以降の発想であり、当時の「稗史」においては「高次な虚構は恣意的空想であってはならず、何らかの根拠を必要とするという暗黙のルールがあった」(p.15)という。

 

その点が、現代の読み手にとっては「謎解き」の愉しみとなるわけなのだが、なかでも面白いのは「名詮自性」という方法である。例えば、里見義実が鯉にまたがっているのは「鯉」=「里」+「魚」であって「里見の魚」であるためであり、「伏姫」の名は「伏」=「人」+「犬」であることから、そこに「人に従い犬に従う」宿命を読む。

 

さらにこの物語のカギをなす「八つの文字の珠」は「八字文殊」を指すとしか思えないという。八字文殊とは「八字の真言を持する文殊菩薩」である。巨大な唐獅子の背中にまたがった女体の文殊であり、周囲には9人の幼童子が描かれる。そのうち8人は「文殊八大童子」、1人は「文殊侍者」だ。また「八字文殊曼荼羅」というマンダラもあって、ここでは八大童子のうち2人が尼童子、つまり女性であることがわかる(だから犬士は8人であって、そのうち女装者が2人なのだ)。文殊はもちろん物語の中心となる「伏姫」そのもの。さらに本書のラスト近くでは、そもそも「マンダラ」は「まだら=斑」に通じ、そのため「犬」を意味する言葉でもあるという指摘があって驚く。ここにも「名詮自性」がある。

 

八犬伝は様々な物語を下敷きにしている。馬琴自身が明らかにしているだけでも「里見軍記・房総地誌関係」(八犬伝のベースには房総のローカリズムがある)、「槃瓠(ばんこ)説話」(いわゆる異類婚姻譚)、「水滸伝」だ。これらを巧妙に組み合わせることで、馬琴はローカルでマジカル、かつヒロイックな前代未聞の物語を生み出したのだ。本書は絡まり合った糸をほどくように、多重多元的なルーツを解き明かし、八犬伝そのものの本質に迫ってみせる。その内容を一言で言うのは難しいが、おそらくキーコンセプトは「シンクレティズム」であろう。

 

いずれにせよ、これは無類の物語を解き明かした、無類の一冊である。その凄みをうまく伝えられずもどかしいが、読めば「八犬伝」自体を読み直したくなること必定だ。なお「八犬伝」自体が未見という方は、子供向けのダイジェストでもいいのでぜひ一読すべき。日本人に生まれてこの奇想天外の物語を知らないのは、もったいない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【2557冊目】小松左京『題未定』

 

題未定怪奇SF (文春文庫)

題未定怪奇SF (文春文庫)

 

 

ヘンな小説である。連載のタイトルが決まらないと悩んでいる作家(著者自身)のところに手紙が届くのだが、それがどれも「連載されている小説」についての感想なのである。さらに「2カ月後から来た著者自身」からの手紙まで登場し、そこから「宇宙人」に出会い、なぜかハワイのレストランに移動し、さらになんとタイムトラベルで7世紀の日本へと……。

 

どうやら「著者がタイトルを思いつかない」ことがとんでもない歴史的緊急事態を引き起こしているらしいのだが、その事情がよく分からないままに、著者の膨大な歴史的ウンチクが披露され、著者自身はさらに江戸時代の日本にまで移動し、結局「題未定」がそのまま小説のタイトルとなるという、なんだか鼻をつままれたような展開のまま幕を閉じる。著者の余芸なのか、はたまたシュールでメタな新しいSFに本気で取り組んだのか。珍妙ながら忘れがたい作品。

【2556冊目】編集工学研究所『探究型読書』

 

探究型読書

探究型読書

 

 

著者が「編集工学研究所」となっているが、ベースになっているのは所長である松岡正剛の読書法。読書を読前・読中・読後の3つのフェーズに分けて、それぞれの段階ごとに行うべき内容を明確化、一定のフォーマットとして落とし込んでいる。

 

全体の印象は、失礼ながらいささか平板。自身ではなく松岡氏の読書法を「伝えている」というスタンスのためだろうか。本書の狙いは、松岡氏の読書法を一般化し、継承することにあると思われる。「探究型読書ノート」をダウンロードできるようにして、段階ごとに具体的なやり方を明示しているところなど、松岡読書術のマニュアル化、フォーマット化そのものだ。その良し悪しは別として、今後の(おそらくは松岡正剛亡き後を想定した)編集工学研究所の方向性のひとつを、この本は示しているように思われる。

 

読んでいて一番面白かったのは、探求型読書の学校現場への応用展開として紹介されている「Book Up!」という取り組みだ。これは6段階になっているのだが、一冊の本を取り出すところから始まって、最後はなんと「エア新書」といって、新たな空想の新書企画を立ち上げるところまでいくのである。このメソッドはすばらしい。いずれ全国の学校現場で取り入れてほしい。

 

ラストは対談3つ、ポーラの人事戦略部長、中高一貫校の副教頭、IMD北東アジア代表という異色の組み合わせなのだが、実はこの対談が本書で一番面白かった。やっぱり本は、書き手や語り手の「肉声」が感じられたほうが良い。

 

「著者の言葉や思考を『仮の器』としていったん使わせてもらう。それってすごい方法だなともいます。違う言葉に乗って、違う『器』を借りて考えることで、逆に自分に問い合わせがかかるんですよね」(株式会社ポーラ 荘司人事戦略部長)

 

「探究型読書の『目次読み』で行う『伏せて、開ける』という手法は、疑似的な飢え状態を作っていますよね。あのひと手間が手前にあることで、本をすごく読みたくなるじゃないですか。そういう細かい仕掛けはとても大事だと思うんですよ」(かえつ有明中・高等学校 佐野副教頭)

 

「ヒントは今の時代だけにあるわけじゃないですよね。人類はこれまで、いたるところでさまざまな変化を体験してきている。自分だけじゃないし、今だけじゃない、ということにしっかりと向き合って、自分の想像力次第で学べる素材はいくらでもある、とうことに気づくといいと思います。その時に『探究の結晶』である本をいかに活用するかというのが、さきほどからの話ですね」(IMD 高津北東アジア代表)