自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【2310冊目】渡辺正峰『脳の意識 機械の意識』

 

 

意識は存在するか、と聞かれて、存在しないと答える人はいないだろう。なぜか? 自分が意識をもっているのは、言うまでもなく自明だから。

だが「意識」を科学的に研究しようとするとき、もっとも厄介なのが、この「自分にとって存在するのが明らか」という点だ。通常であれば、あるものが存在するかどうかを、実験や測定によって明らかにするところから、研究や考察が始まる。だが、意識は「あるに決まっている」というところから始まるのだ。

しかもそれは、あくまで主観的な把握であって、客観的にこれを捉えるのは至難の業である(いわゆる「意識のハード・プロブレム」)。極端に言えば、自分以外の人が意識をもっているかどうかを証明することは、基本的にはできない。あなたの隣にいる人が実はアンドロイドで、「意識があるフリをする」ようにプログラムされていたとしても。

ところが、である。著者はなんと「意識の存在を科学のまな板に載せる」ためのメソッドを考案した。それが「人工意識の機械・脳半球接続テスト」だ。著者はまず、人間の意識が、右脳と左脳の統合によって生じることに着目する。そこで、人間の脳の半分を同様の機能をもった機械につなぎかえ、それでもその人間が意識を感じることができるかをテストする、という発想に至ったのだ。もう少し具体的に言えば、脳半球側の視野で見えているものと、機械半球側の視野で「見えている」ものを統合して視覚が生じ、「見えている」という感じが得られれば、そこに意識が生じたと見るのである。

それだけ? と思われるかもしれないが、ポイントは「見えている感じ」が得られるかどうかなのだ。こうした「感じ」をクオリアと言い、これは意識の存在なくしては得られないものだという。もちろんこれは、視覚情報に基づいてその人がどんな行動を起こすか、といった事とは別次元の話だ。そんなことならロボットにだって自動運転の自動車にだってできる。問題は「意識」なのである。

本書は脳神経科学の初歩から始まり、意識と行動をめぐる最先端の研究にまで至るもので、正直最後の方はかなり難しい。だが「意識」という自然科学の超難問に挑もうという気迫のようなものが伝わってきて、読んでいて小気味よい一冊だ。ただ、ここまで読んでもなお、意識という「主観」の産物を、「客観」の申し子である近代自然科学が本当に捉えられるのか、という疑問は残ってしまった。主観と客観の間を飛び越えるには、そもそも自然科学の方法とは根本的に違ったアプローチが必要なのではないだろうか。

【2309冊目】ジェニファー・ダウドナ『CRISPR』

 

CRISPR (クリスパー)  究極の遺伝子編集技術の発見

CRISPR (クリスパー) 究極の遺伝子編集技術の発見

 

 

タイトルは「クリスパー」と読む。もともとはこれ、遺伝子の配列の中に繰り返し出てくる「回文」構造のこと。これ自体は、ゲノムがもっているある種の免疫システムなのだが、著者はこの仕組みを応用して、とんでもない技術を発見した。

遺伝子編集。膨大な遺伝情報の中から、好きな部分を抜き出し、別の配列と置き換えることのできる魔法の技術である。これまで行われてきた遺伝子組換え技術は、長時間にわたり試行錯誤を重ねる必要があった。ところがこのCRISPRは、高校生でもできるような簡単な技術で、ヒトゲノム32億文字のうちたった1文字だけを入れ替えることもできるのだ。

これで何ができるか、想像がつくだろうか。角の生えない牛。マラリアを媒介しない蚊。何か月も腐らないトマト。筋肉隆々のイヌ。それだけではない。ヒトに移植可能な臓器をもったブタを作り、臓器移植に備えることもできるし、ハンチントン病などの遺伝病を除去することもできる。ロンドンに住む1歳の子どもは、白血病に苦しみ、死を待つしかないと言われてきた。ところが一定の操作を施したT細胞を注入された結果、数カ月で病気が治ってしまったのだ。

夢の技術だ、と思われるだろうか。本書の著者も最初はそう思っていたらしい。だが、少し考えればわかることだが、筋肉ムキムキのイヌを生み出せるなら、筋肉ムキムキの人間を生み出すことだって可能なはずだ。これから生まれる子供の遺伝子をより優秀に変えることもできるし、生殖機能を制限することで、一定の種すべてを絶滅に追いやることもできる。細菌を強力な病原菌に変えて生物兵器にすることもできるのだ。ひとつの技術の「可能性」と「危険性」の両極が、これほどはっきりと示されることはめずらしい。

本書は前半が著者自身のCRISPRによる「遺伝子編集技術」誕生のヒストリーを、後半はCRISPRに関する社会への意識喚起や議論の呼びかけといった、科学者から社会全体に向けた活動を描いている。核兵器を生んだオッペンハイマーの轍を踏まない、と著者は言う。だが、新たな技術を発明した人類が、倫理的・道徳的判断でその技術を使わずに済むものだろうか。パンドラの箱はすでに開いてしまったのだ。

【2308冊目】桐野夏生『路上のX』

 

路上のX

路上のX

 

 

恵まれた家庭に育ったが、高校進学直前に両親が突然いなくなった真由。幼少期から再婚を繰り返す母親と暮らし、義父からレイプされたリオナ。渋谷の街をさまよう少女たちのリアルを描いた小説だ。

たぶんこういう現実を、知らない人は本当に知らないんだろうなあ、と読んでいて思った。JKビジネスみたいな、マスコミに面白おかしく取り上げられるネタの裏側にどんな暗部が広がっていることか。それを知るためには、一人一人の少女に寄り添い、その半生を知らなければならないのだが、それができないからこそ、勝手気ままな言説が世を流れる。

その意味では、一つのリアルの断面を切り取ったであろうこういう小説が刊行されることには価値がある。それになんといっても、少女の目線から徹底的に断罪される、大人の身勝手さと偽善性の醜悪さよ。少女をモノとしてしか見ない男たちが最低であることは言うまでもないが、警察や児童相談所の職員までもが、分かったような顔をして規制の制度に押し込むだけの存在として描かれている。もっともこのあたりは、少女たちの描写が複雑で奥行きがあるのに比べると、いささか浅薄でステレオタイプな描写にとどまっている。

そのあたりのバランスとも関係するのかもしれないが、本書のラスト、リオナや真由が選んだ道が気になった。確かに、小説としては見事に完結してはいるが、本当にそれしかなかったのだろうか。しょせんは現実ってそんなもの、なのだろうか。

【2307冊目】澁谷智子『ヤングケアラー』

 

 

ヤングケアラーとは、家族の介護を担う18歳未満の子どもをいう。え、そんな子がいるの? と思われたかもしれないが、福祉の現場に身を置いていると、けっこういるのである。精神疾患の親に代わり認知症の祖母を介護する中学生、肢体不自由の父親に代わり買い物や料理をする小学生、知的障害の姉と共に母の帰りを待つ高校生。そういう家庭にはなるべくサービスを入れるようにするのであるが、なかなか難しい家庭も多く、うまくいかないこともある。まあ、これは私の知る範囲の話。

本書はそんなヤングケアラーの実態をまとめた一冊だ。先進的な取り組みを行う南魚沼市藤沢市、国ぐるみで課題解決に取り組んでいるイギリスなどの事例を踏まえつつ、あくまでケアを担う子どもにフォーカスし、その実情をかなり深いところまで掘り下げている。

南魚沼市の研修会で提示された「子どもがケアを担うことに対して、どのような態度で関わることが正しい姿だと思いますか?」との問いに対する答えが印象的。回答者は次の3つの選択肢を提示したという。あなたなら、どれを選ぶべきだと思いますか?

 

(1) 子どもがケアを担わないよう、家族・地域に働きかける。
(2) 子どもがケアを担えるように、教育する・能力を伸ばす。
(3) 子どもがケアを担うことから逃げるように働きかける。

 

 

 

(1)は理想的だが、それができないから子どもに負担がかかっている、というケースも多い。(2)を主張する人は、ケアも人生経験のひとつとして必要だと思っているのかもしれないが、そのため学校に行けなかったり夜寝られなかったりすると、その子の人生自体がケアに喰われてしまう。(3)は、本書では「一時的に離れる機会を作る」という意味合いで紹介されているが、個人的には、実際に逃げてしまう/逃がしてしまうのも一手なのではないかと思う。本書のどこかに書いてあったが、ケアサービスを入れる際には、その子どもが「いない」前提で入れていくことが必要だ。

藤沢市の事例では「これまで『困った子』と扱われてきた子どもたちを『困っている子なんだ』という視点でサポート」というくだりが印象に残った。実際、ケアを担う子どもたちは、学校に遅れる、宿題をしてこない、忘れ物が多い、学校を頻繁に休んだり抜けだしたりすることから「困った子」「問題児」とみられることが多い。そのように周囲が接すると、子どもは余計に介護のことを言いづらくなる。学校などがその子の状況を把握し、「指導」ではなく「支援」につなぐことができるかが問われている。ヘルパー事業所などの公的ケア提供側からの情報提供も重要だ。

ヤングケアラーたちが集まる「たまり場」「相談の場」も重要だ。この点ではイギリスの取組みが参考になるだろう。今ならネットを使うことも考えてよさそうだ。ヤングケアラーという言葉がもっと定着し、そういう実態があることが広く知られ、そしていずれは、ヤングケアラーが存在しない社会になってほしいものである。 

 

【本以外】映画『バジュランギおじさんと小さな迷子』はおススメ

f:id:hachiro86:20190204125645j:plain

 

インド映画ってここまで進化してたのか。以前『バーフバリ』を観た時は、その圧倒的なパワーに驚いたが、本作は別の意味で感動させられた。いやあ、まいった。

 

口のきけないパキスタンの少女が、ひょんなことからインドで母とはぐれてしまう。少女と出会ったパワンは、その子がパキスタンから来たことに気づき、どうにかして家族のもとに戻してあげようとする。ビザ発給の道が絶たれ、パワンは自力で国境を越えることを決意する。名前も知らない6歳の少女を家に帰すために・・・・・・。

 

ストーリーは王道ど真ん中、全球直球勝負のピッチャーみたいな映画だが、それがあまりにも力強くて、駆け引きも計算もなしで観客の胸にドカンと届く。まずなんといっても少女役の子がむちゃくちゃ可愛い。口がきけないということは、わずかな表情やジェスチャーだけですべてを伝えなければならないが、そんな難しい演技もしっかりこなしている。主人公のパワンもいい。最初は、がっちりした体格とぬぼっとした感じがどこかオードリーの春日に見えて仕方なかったが(私だけ?)、これがどんどん成長し、内実が伴ってくるのである。

 

インドとパキスタンの確執という難問を真正面から取り上げたのは快挙であろう。しかも、一方的にパキスタンを悪者にするのではなく、むしろ人間としての普遍性に光を当ててヒューマニズムで一貫させたのが素晴らしい。それがインド-パキスタン国境での、あの感動的なラストシーンにつながってくる。

 

もちろんインド映画であるから、歌あり、踊りありのド派手さは相変わらず(主題歌がまたいいんだ、これが。字幕を読んでいるだけで胸に沁みてくる)。ハリウッドがちょっとひねったエンタメかアメコミヒーローものしか作れなくなった今、これだけの直球オンパレードの映画を堂々と押し出してくるインド映画は、もはやハリウッドを超えてしまったのかもしれない。

 

手に汗握り、げらげら笑い、そして感動に涙する(私の隣に座っていた女性は、後半30分くらいずっと泣きっぱなしだった)。これぞ映画、これぞ本物のエンターテインメント。必見です。