自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【2192冊目】向田邦子『父の詫び状』

 

「思い出はあまりに完璧なものより、多少間が抜けた人間臭い方がなつかしい」(p.41)

 

 

父の詫び状 <新装版> (文春文庫)

父の詫び状 <新装版> (文春文庫)

 

 
「あとがき」を読んでびっくりした。著者は本書に収められたエッセイを、利き手とは反対の左手で書いたという。乳癌をわずらい、輸血が原因で血清肝炎になり、右手が全然利かなくなってしまったのだ。しかも本書は、著者の第一エッセイ集。それがこれほどの名品揃いなのだから、なんとも空恐ろしい才能である。

暴君だった父の記憶や、戦中から戦後にかけての日々が、息をするように書かれている。台所の音も、食卓の匂いも伝わってくる。そしてまた、その中に語り手である著者自身の声が混じって、響いてくるようだ。

家族の記憶がこれほど鮮明であり、またそれを、これほど生き生きと描けることにも驚かされる。特に印象的なのが、威張り散らして怒ってばかりだが、実は小心で不器用な父の姿。おそらく著者は、腹が立ってしょうがなかった父のことを、こうして文章に書き起こすなかで、はじめて懐かしく思い出し、冷静に捉えなおすことができたのではないだろうか。

【2191冊目】田山輝明『成年後見読本』

 

成年後見読本 第2版

成年後見読本 第2版

 

 

成年後見制度の概要をわかりやすくまとめた一冊。単なる制度説明にとどまらず、改正前民法との比較、諸外国の制度の紹介、さらには「より良い成年後見制度」の提案まで書かれている。

そもそも戦前の成年後見制度は、「家」の財産保護が主目的だった。家長が適切に財産を管理できなくなった時に、代わりに財産を維持するための制度だったのだ。これを著者は「自益後見人」という。

だが、現在の後見制度は本来「他益後見人」である。つまり、家のため、家族のためではなく、あくまで本人の権利を守り、財産を維持するための制度なのだ。

とはいえ、成年後見制度とは本来、本人の能力を剥奪すること。それだけに慎重にならざるを得ないはずなのだが、現在の制度では剥奪の度合いの高い後見類型が多い。著者はこれが保佐類型中心になるよう制度を改め(保佐類型のほうが制限の度合いが低く、本人のできることが多い)、その分、後見類型の場合は医療同意も含めた同意権を明確に後見人につけておくべきだという。

このテーマ、福祉関係の仕事をしている人以外にはあまり関係がないように思えるかもしれない。だが、この超高齢社会にあって、成年後見制度を知っているか知らないかの違いは大きい(その割にちゃんと知っている人は少ない)。パンフレットのようなものもあるので、一度は目を通しておくとよい。

 

【2190冊目】杉浦日向子『百物語』

古より百物語と言う事の侍る 不思議なる物語の百話集う処 必ずばけもの現われ出ずると

 

百物語 (新潮文庫)

百物語 (新潮文庫)

 

 


ホラー、というのではない。怪談、あるいは「奇妙な話」とでもいうべきものが、九十九話。百話目がないのは、この「百物語」のお約束。

障子に浮き出る顔の話。己の姿を見た男の話。鉄を食う化け物の話。瞼の上で踊る小さなもののけの話。恐怖や怪異は、時にさらりと、時におどろおどろしくあらわれる。説明は、ない。

毛筆で書かれているのだろうか、線がとにかく美しい。同じ作家とは思えない多彩さにも驚かされる。シンプルな線描だけのもの、モノクロームが鮮やかなもの、水墨画風のもの、太い筆で大胆に描かれたもの・・・・・・。それは正しく「マンガ」であって、同時に江戸時代の浮世絵や黄表紙などの末裔なのだ。

どの物語も、江戸時代の人びとが生きていた世界のすがたを、当時の人びとの目から捉えるように描かれている。西洋近代合理主義などという野暮なものはまだなく、幽霊も妖怪も魑魅魍魎も身近な存在であった時代。怪異譚であるにも関わらず、この本を読んで感じるのは、そんな江戸の生活への憧憬なのである。

 

【2189冊目】宮城公博『外道クライマー』

 「右手は今にもちぎれそうな草を鷲掴みにし、左手は粘膜たっぷりのカエルの穴蔵に突っ込む。両足は泥だか岩だか分からないようなものに乗せ、なんとか手を伸ばして這い上がろうとすると、次に掴まなければならないのはヘビがとぐろを巻いている細い枝だ。下は濁流が渦巻いており、落ちればどう考えても助からない。「頼むぞ」と声を上げ、まさに頼みの綱であるロープを握っている。パートナーを振り返れば、なんとロープなんぞ握っていない。両手を離して煙草に火をつけるのに必死でロープのことなんて忘れている」

 

外道クライマー

外道クライマー

 

 

登山の中に「沢登り」なるジャンルがあることは、本書を読んで初めて知った。

沢登りと聞くと、ハードなクライミングと違ってのどかで平坦な印象があるが、本書を読めばそれがとんでもない間違いであることがわかる。そのすさまじさを、名うての「沢ヤ」である著者は冒頭のように描写する。

名だたる高峰がことごとく制覇されてしまった今、未踏の世界は「沢登り」のほうにたくさん残されているという。特に「ゴルジュ」と呼ばれる、両側を切り立った崖に囲まれた水路や滝を登るキツさはすさまじい。

本書ではそんな「ゴルジュ」である富山県の「称名廊下」や台湾の「チャーカンシー」、さらにはタイのジャングルでの46日間にわたる沢登りを記録した、他に類を見ないワイルドでエキサイティングな一冊である。そこにあるのは、沢登りという「外道」でありながら、実は登山の「王道」をまっすぐ突き進んでいるとしか思えない、狂気と紙一重の情熱だ。

「登山とは、狂気を孕んだ表現活動なのだ」

 


その意味を肌身で感じることのできる、前代未聞の「沢登り」ノンフィクション。

【2188冊目】大澤真幸『思考術』

「考えることは書くことにおいて成就する」 

 

思考術 (河出ブックス)

思考術 (河出ブックス)

 

 
考える。そのために、読む。

著者は、書物を「思考の化学反応を促進する触媒」であるという。書物は、みずからの思考を深めるためのツールなのだ。だが、漫然と読んでいるだけでは、ショーペンハウエルも言うように、「書物に代わりに考えてもらう」ことになってしまう。では、思考のために書物を読むには、どのようにすればよいのだろうか。

本書は、著者自身がそのことを、具体的な書物の読み解きをもとにやってみせた、いわば模範演技集である。それも「社会科学」「文学」「自然科学」の3とおり。社会科学では「時間」、文学では「罪」、自然科学では「神」が、それぞれテーマである。

どれもなかなか面白いが、では具体的に自分がどうすればよいのかというと、なかなか難しいものがある。体操の初心者がいきなり内村航平の演技を見せられて「じゃあ、やってみなさい」と言われているようなものだ。具体的なノウハウに関しては、むしろ序章の「思考術原論」が役に立つ。

そして、終章では「書くこと」について書かれている。これが終章に置かれている理由は、冒頭に掲げた言葉に尽きる。さらに言えば、書くことによって思考は深まり、実体化するのである。このことは、著者のレベルとは数段違うが、この「読書ノート」を書いているとよくわかる。読んでいるうちはよくわからなかった本が、それでもどうにか書いているうちに「ああ、この本はこういうことを書いていたのか」と気づくという経験は、少なくない。

よく「インプット」とか「アウトプット」というが、本書を読むと、インプットは単なる情報の取り込みではなく、アウトプットも単なる情報の吐き出しではないことを実感する。インプットそのものが思考に寄り添っているのであり、アウトプットそのものが思考を形成しているのである。本書は、そうした思考のダイナミズムを知るための一冊なのだ。