【2285冊目】シェリー・ケーガン『「死」とは何か』

 

「死」とは何か イェール大学で23年連続の人気講義

「死」とは何か イェール大学で23年連続の人気講義

 

 

私たちはみんな、いずれ死ぬ。ところが奇妙なことに、「死」のことを本当にとことん考えることはめったにない。ちらりと頭をかすめる程度だったり、気の利いた逆説を思いついて満足したり、というところで止まってしまい、その思考は、いつの間にか日常に紛れてしまう。。

本書は、これ以上は無理ではないかというところまで、「死」についてとことん理詰めで考えた一冊だ。どのタイミングから「死」と言えるのか、死はなぜ悪いとされるのか、永遠の生があったとしたらどうなのか、有限の生の中で何をすべきか、自殺は良いか悪いか、といった問いを、ひたすらロジカルに突き詰める。

とはいえ、「生と死」というテーマを考えていくと、必ずや論理だけでは済まない領域に差し掛かることになる。生きること自体に価値があるのか、あるいは価値あることを成し遂げるからこそ人生は価値があるのか、といったような、究極的な価値観が問われてくるからだ。ここでは著者はあくまで西洋文明の「落とし子」として、仏教の「一切皆苦」的価値観をチラ見しつつも、結局は人生そのものをポジティブに捉える立場に戻っていく。もちろんそれは西洋的な価値観に囚われているということなのだが、それを言うなら、私たちは誰もが特定の価値観に囚われているものだ。著者は少なくともその点について自覚的であり、それはとても大事なことだと思う。

一定の価値観に立ちつつ、そのことに自覚的であり、その上でロジカルに考える。そんな著者の姿勢は、たいへんに「正しい」ものだと思う。ただ、私は読んでいて、その「正しさ」になんともいえない息苦しさを感じた。実際、これほどまでにあらゆる側面について考え抜いたにもかかわらず、少なくとも私にとって、本書は「死」に関する、腑に落ちるような視点や発見を与えてくれなかった。

だが、それは著者の責任ではない。そもそも死を考えるという行為自体がはらんでいる、ある種の落とし穴なのだ。思うに、死を考えるにあたっては、どこかである種の跳躍が必要なのではないだろうか。本書にはその「跳躍」がない。だからとことんまで、隅々まで死を考えているようで、やはりどこかが抜けているように感じてしまうのだ。

ちなみに私が「死」を考えるにあたっては、3つくらいの極端な事例に、その思考が当てはまっているかをチェックするようにしている。極端な事例を排除したがる人もいるが、極端な事例はその思考自体の限界を試すものであるからだ。

1つめは、その考え方は、生涯ほぼ寝たきりの重度心身障害者にも該当するか。あるいは、発語も運動もできなくなった、ALSの末期患者にも該当するか。

2つ目は、その考え方は、親の虐待で死んだ1歳の子どもにも該当するか。

3つ目は、その考え方は、すべての動物にも該当するか。

ついでに、私が「生と死」について(本書とは無関係に)考えていることを書いておきたい。それは、生とは死であるということだ。生の終わりが死なのではなく、死のプロセスそのもののことを、わたしたちは「生」と呼んでいるのである。それが病死であれ、突然死であれ、自殺であれ。とりあえずの仮説なので、もっと説得力のある仮説に出会ったら乗り換える予定だが、少なくとも本書では、そんな仮説には出会えなかった。