【1350冊目】新谷尚紀『お葬式』
- 作者: 新谷尚紀
- 出版社/メーカー: 吉川弘文館
- 発売日: 2009/01/30
- メディア: 単行本
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昔から伝統的にやっていると思い込んでいるコトが、実は最近はじまったばかりと知ってびっくりする、ということが時々ある。特にこの「葬式」なんて典型的で、あれだけ定型化されたセレモニーなのだから、さぞかし長い歴史と伝統があってのことなのだろうと思って本書を読むと、あまりの違いに仰天させられる。
たとえば、以前の棺桶はその名の通り「桶」であり、遺体は座るようにして収められた。
たとえば、以前の喪服は「白」だった。
たとえば、香典の原型は「米」であり、清めの意味が込められていた。
たとえば、お墓(墓石)なんて、以前はほとんどの人が建ててもらえなかった(ある村の調査では100人中2,3人だったそうだ)。お墓が建てられるのは、幼くして亡くなった子ども、あるいは戦死者などごく一部だったという。「墓を守る」なんて発想は、近現代に入ってからのものにすぎないのである。
ちなみに、ここでいう「以前」には、内容や地域によっても違うが、コトによると高度成長期以後までが射程に入る。もっとも、そもそも最近までは地域によってさまざまな風習があり、葬式のあり方自体がきわめて多彩多様であった。
それが急激に変わって来たのが、まさに高度成長期。その背景には、例によって共同体の崩壊や都市化があったわけなのだが、さらに重要なポイントとして、葬儀のビジネス化が急速に進んだことが大きく影響しているという。特に近年の「葬祭産業」は、絢爛豪華な祭壇をはじめとして、葬儀にまつわる様々なグッズやイベントを付加価値化した点で、従来の伝統的な葬式のスタイルを一新してしまった。
もっともその反動か、最近は、むしろお仕着せの豪華な葬式よりも、簡素なスタイルでの「お別れ」を望む人が増えているらしい。興味深いことに、それは結果として、かつての伝統的な葬儀のスタイルにかなり重なりつつ、独自の現代的な味わいをもつものとなっている。定式化の権化のように見える葬式というものも、実は時代によって大きく変わってきているのである。
本書はこうした葬式をめぐる変容を、民俗学者としてのニュートラルな視点で捉え、淡々と紹介しつつ、一方では葬式という「物差し」によって日本の社会や文化そのものを測るものとなっている。特に、日本の葬送の歴史を「畏怖と祭祀」「忌避と抽出」「供養と記念」の三段階に分けて論じるくだりはなかなかおもしろい。こういうカテゴライズをすることで、生と死をめぐる日本人のメンタリティの本質がみごとに透けて見えてくる。
そもそも日本では、死者はおそろしい存在だった(畏怖)。それが平安時代あたりになってくると、死を穢れと見て避けるようになり(忌避)、さらにはそれが一転して、武家社会と檀家制度のもと、死者が個人として扱われるようになった(記念)というのだ。今の時代はこの「供養と記念」が続いている、と著者は指摘している。
この議論の延長線上に出てくるのが、本書の後半で扱われている、軍人の死者を「軍神」としてまつり上げた日露戦争〜太平洋戦争の時代に関する分析である。「お葬式」というタイトルの本にこんなテーマが出てくるので最初はギョッとしたが、考えてみれば、日本人の死生観を問うには「軍神」や「英霊」の問題は避けて通れない。実際、本書はかなりガチンコでこの問題とぶつかっている。
その詳細を説明しだすと長くなるのでやめておくが、二つだけメモっておくと、まず日本には、確かに死者を神として祀るという習俗が古来より存在した。しかしその多くは、菅原道真に見られるように「怨霊」となった人間を鎮めるといったニュアンスであり、英雄神格化としての祀りあげは、豊臣秀吉や徳川家康など限られたケースにすぎなかった。むしろ著者は、この発想のルーツに江戸後期の国学者、平田篤胤の御霊信仰を指摘している。
もう一つは、「軍神」となるべき人物の選定についてである。軍神第一号は日露戦争下で死亡した広瀬中佐であったというが、実はこの人物、特にすぐれた業績を挙げているわけではなく、部下を探して船を探しまわり、見つからず退去する時に頭部を撃たれ死亡したという「だけ」の人物なのだ。部下想いと言えば確かにそうなのだが、むしろ指揮官としての立場を離れて一人の部下の捜索に没入するのは、上官としてはちょっといかがなものかとも思えるのだが、それがあれよあれよと熱狂的にまつりあげられ、果ては「軍神」にまでなってしまった。
こうした情緒的で「美談」中心的な「人選」は太平洋戦争以降も続き、特段の武勲もない人物が、自己犠牲的な行為や壮絶な死に方ゆえに、次々に軍神として称えられるようになった。その理由は明らかである。「軍神」たちは、国民の戦意高揚のため神となったのだ。こうなってくると、ここから「特攻」までは、ほんの一歩の距離でしかない。
もちろん本書は、そのことの是非を論ずるものではない。ただ、生と死をめぐる日本史の1ページには、戦争遂行のため兵卒を「神格化」したという、世界的にみてもきわめて特異な現象があったという事実は刻んでおかなければならない、ということなのだ。そしてそうした死生観もまた、私を含む日本人の精神のどこかに間違いなく巣食っているはずなのである。
生と死の「はざま」を眺めることで、日本人が、そして自分自身が見えてくる。なぜなら、葬式を考えるとは結局、死を考えることにほかならないのだから。本書はそのための入り口としてはわりと入りやすい一冊かと思われる。そして読むうちに、いつしか「自分の葬式」のことまで考え、自分の人生についてまで思いをめぐらせてしまうことになるのである。
死を「具体的に」想うための一冊。