自治体職員の読書ノート

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【1978冊目】高村薫『空海』

 

空海

空海

 

 

作家、高村薫が「21世紀の空海の肖像」をたどる一冊。冒頭、東日本大震災被災地における信仰と、被災寺院のおかれた苦境について書いているのが印象的。原発事故で檀家が全国に避難してしまった浪江町の寺の場合、檀家はこれから先祖供養をどうしようかと悩み、寺は檀家の代替わりによる離壇が続きかねない今後を不安に思う。「人間の生活が失われた土地では、当たり前のことながら寺も僧侶も、仏も大師も消えてゆくのである」という著者の言葉は、重い。

さて、本書のメイン部分は、やはり空海という多面的なスーパースターの実像をさまざまに描いていくところにある。そもそも、空海が日本に伝えた真言密教の凄みは、種々の修法を通した身体体験であり、あらゆる感覚器官を通じて行者自らが到達する心的領域にある。空海自身も「誰にも真似のできない身体体験の深さ」「そこからくる絶対的な宗教的確信」「修法での圧倒的な加持祈祷の力」ゆえに、特別な存在とされてきた。

だが空海がユニークなのは、それを単に「語り得ない」内的体験にとどめることなく、それを徹底して言葉によって分節し、体系化したことにある。それを著者は「言葉が身体を言い当てるのではなく、身体のほうが強引に言葉をつかみにゆく」と表現している。空海と同時に入唐した最澄天台宗が教理問答や教相判釈といった理論面・解釈面を重視したのに対して、空海はあくまで身体体験を主に置きつつ、それを言葉に変えていったのだ。

そこにあるのは、文字に対する空海の独自の捉え方だった。空海は文字を単なる情報伝達の手段ではなく、それそのものが存在であると喝破したのだ。空海はこう言っている。「それ如来の説法は、必ず文字に藉る。文字の所在は、六塵(色・声・香・味・触・法の六種の認識対象)その体なり。六塵の本は、法仏の三密、すなはちこれなり」つまり、文字とは人間の認識対象から発生するが、その認識対象じたいが同時に大日如来の身体・言葉・心の三密である、と考えるのだ。となると、文字を生む認識対象(六塵)は大日如来から来たっているのだから、文字とは実相である、ということになる。もちろんここで言う文字が「声に出す文字」であることは言うまでもあるまい。

この言語論には、現代の言語学をはるかに吹っ飛ばす迫力がある。すなわち密教においては、「大日如来=声=文字=全宇宙」(p.82)なのだ。だから修行者が全宇宙から受け取り、自らを満たす身体体験もまた、同じく大日如来=全宇宙の発現なのであり、当然に(六塵から生じる)文字で表せる、ということになる。

なお、ここで言う文字とは基本的には「梵字」つまりサンスクリット文字のことであり、論理を紡ぐ言葉そのままとは言えないように思われる。その点では、先ほど挙げた天台宗のロジカルな言語用法とは対極的だ。だが、これが皮肉なことに、空海最澄の死後の、真言密教天台宗の命運を分けることになる。真言密教は「天才・空海」の身体的直観があり、それを体系化するための言語に絶する努力があって初めて完成されたが、それがあまりに完成されていたため、その後の発展はほとんど見られなかった。一方、最澄天台宗は、最澄の死後も、時には瑣末な論争を延々と続けていたため、かえって大きな発展を遂げ、後に鎌倉新仏教のゆりかごとなった。法然親鸞栄西道元日蓮、一遍らの「鎌倉六宗」は、すべて天台宗から生じたのだ。

このあたり、なんだか空海スティーブ・ジョブスめいており、アップルが真言密教に見えてくる。マイクロソフトやグーグルの「ゆるさ」とアップルの完成度は、今後どのような変遷をたどるのだろうか。まあ、それほど変わらなかったからこそ、われわれは今でも真言密教の修法を見れば、宗教的行為が僧侶の専有だった頃の仏教のありようを再確認できる、とも言えるのかもしれないが。

さて、本書は最後の章で、ハンセン病患者と大師信仰の関係を取り上げている。これを読むと、天台宗の教理問答とは別の次元で、空海=お大師様の信仰が民衆レベルで根強く生き残っていることがうかがえる。強制隔離以前、ハンセン病患者が四国八十八か所参りを行った際、口ずさんでいたのは弘法大師和讃の「業病難病受けし身は 八十八の遺跡に よせて利益を成し給ふ」であったそうだ。著者はこれこそが「まさに信仰であった証」と考え、次のように続けている。

「いまの日本にもしこれに似た信仰が存在するとすれば、わずかに東日本大震災被災地にある祈りぐらいではないかと思う」

日本人にとって、信仰とは何か。この本質的な問題を、著者は「ハンセン病」と「東日本大震災」という二点のアイダに示して終る。あとは、われわれ一人ひとりが、それぞれに考えるべきなのである。