自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【1285冊目】山口謠司『ん 日本語最後の謎に挑む』

ん―日本語最後の謎に挑む (新潮新書)

ん―日本語最後の謎に挑む (新潮新書)

東京の「日本橋」をローマ字で書くと、なぜNihonbashi ではなくNihombashiなのか。なぜフランス人は、日本人が「んー」と言うと嫌がるのか。そもそも「ん」は、なぜ五十音図の「外」に置かれているのか。「ん」って、日本語にとってなんなのか。

本書はそういった「ん」にまつわる身近な疑問をとっかかりに、「ん」をめぐる謎解きに取り組む一冊である。入口は入りやすいが、その議論の奥行きは驚くほど深い。なにしろこの謎解きは、日本語をめぐる「話し言葉」と「書き言葉」の歴史を紐解き、空海最澄、さらにはサンスクリット語と日本語の関係にまで至るのである。

同時に「ん」問題は、江戸時代、上田秋成本居宣長の間で大議論となったテーマでもあった。秋成が、古代の大和言葉に「ん」の音があったと主張したのに対し、宣長はなかったと反論したのだ。面白いのは、その際の宣長の主張。『漢字三音考』で、宣長はこう書いているという。


「ンは全く鼻より出る声にして、口の音に非ず…(略)…されは皇国の五十連音の五位十行の列に入らずして、縦にも横にも相通う音なく、ただ孤り立ちなり」(p.138)

そして、ンの音は「物言に口のみならず鼻の声をも厠借る(まじへる)者にして、其不正なること明らけし」という。ずいぶんな言われようであるが、ちなみに宣長は、濁音についても「不正」であり、外国語にはこうした不正な音がたくさんある一方(「鳥獣万物の声に近きもの」とまで言っている)、上代の日本語は「清音」のみで成り立っており、それは純粋な五十音のみで構成されていたと考えたのだ。いかにも国学の大成者、宣長らしい論法である。

結論から言うと、この宣長の主張は誤りであり、古代から話し言葉(音韻)としての「ん」も日本語に存在したらしいことが今ではわかっている。しかし、その音韻をあらわす書き言葉(文字)としての「ん」は、長きにわたって存在しなかったという。そのため、「ん」と発音する言葉を表記するさいには、他の言葉で代用したり、あるいは省略したりすることが多かった。

ちょっと面白いのは、そうした代用表記がその後、地名として定着しているケースが多いという指摘だ。例えば「信濃」は「シン・ノウ」のンがナ行に変化したためこう表記され、後に「シナノ」と読むようになった(つまり「音韻」→「表記」→「音韻」)、讃岐は「サン・キ」がやはりナ行に変化して「サヌキ」になった。また、ラ行変化としては「播磨」が「ハン・マ」→「ハリマ」と変化するような例がある。

以上、雑学的に紹介してしまったが、実際にはかなり細かい日本語表記や音韻上の分析が書かれており、音韻と表記をめぐる複雑きわまりない日本語事情の一端を知ることができる。そのあたりについては、正直なところマニアックすぎて理解が及んでいない部分もあるのだが、少なくとも日本語の「音」と「文字」をめぐる事情がかなりややこしいことだけは理解できた。そして「ん」こそは、そのややこしさがもっともクローズアップされるテーマであるらしいのだ。

他にも万葉仮名からひらがなへの移行と「ん」の関係、仏典がもたらした日本語への影響、さらには明治以降の幸田露伴や「天才言語学者」と呼ばれた有坂秀世の研究、服部四郎の「ン」の発音分類(なんとこの人、日本語の「ン」の発音を十種類に聴き分けられたという)など、とにかく一冊ひたすら「ん」について書かれている。このわずかな分量で、日本語の奥の深さにここまで分け入る手際はなかなかのもの。最後にちょっとだけ書かれた「ん」をめぐる日本文化論もすばらしい。残念ながら「ん」の謎がすべて明かされるわけではないのだが、日本語の妙を存分に楽しめる一冊である。