【1604冊目】鎌田茂雄・上山春平『仏教の思想6 無限の世界観〈華厳〉』
無限の世界観「華厳」―仏教の思想〈6〉 (角川文庫ソフィア)
- 作者: 鎌田茂雄,上山春平
- 出版社/メーカー: 角川書店
- 発売日: 1996/10
- メディア: 文庫
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華厳経についてよく知らない人(私のことだが)でも、東大寺の大仏は知っているだろう。実はあの大仏、大毘盧舎那仏という華厳経の中心的な仏であり、華厳経を知って感激した聖武天皇の詔によって建立されたものだという。
しかも東大寺は「日本総国分寺」とされ、地方にそれぞれ建立された「国分寺」の中心となった。これはいわば、華厳経の世界観がそのまま日本の国家統治システムに導入されたということだった。なぜなら華厳経におけるワールドモデルとは「大毘盧舎那仏を中心として、生きとし生けるものを初めとし、あらゆるものが、無限の光明に照らされている世界」(p.63)なのだ。奈良国家とは、すなわち華厳国家だったのである。
それほどの隆盛を誇った華厳思想も、今やほとんど見る影もない。しかし著者によれば、その思想は空海の真言密教や、さらには禅の中に受け継がれ、今なお日本仏教の底流に脈々と流れているという。本書は、その華厳思想の内容と歴史をまとめた一冊。このシリーズ恒例の三章構成で、第1章が鎌田氏の華厳解説、第2章が対談、第3章は上山氏による、西田哲学との関係の中で華厳を論じるという、少し変わったアングルのものになっている。
華厳研究の第一人者、鎌田氏による第1章は、さすがにたいへん分かりやすい。やたらに煩瑣で理屈っぽいのはこの頃の仏教思想の常であるが、そうしたごちゃごちゃした部分を明快に整理しつつ、華厳とは何なのか、という根本の部分をきっちり押さえた解説になっている。
華厳思想の特徴について、著者は天台と比較して「天台では凡夫の立場より向上解脱をはかるために、止観や観心が必要となり、華厳ではほとけの顕現としての性起観が用いられるようになる」(p.151)とまとめているが、さすがにこれだけでは何のことだか分からないだろう。
つまり、天台ではまず人は凡夫から始まり、さまざまな修業を経て、だんだんと仏の境地に近づいていく。一方、華厳においては、いきなり「人は本来、仏である」というところから始まる。別の個所からの説明を引用すると「ほとけというとなにかわたしたちとは別なものであるというように考えるが、ほとけとはわたしたちの心と同じであり、心の持ち方によってほとけになりうるのだという。現に苦しみ、悶え、悩んでいるわたしたちを離れて、ほとけというものはありうるのではない」(p.75)ということになる。
これに関連して、重要になってくるキー・コンセプトが「性起」である。ここで「性」とはわれわれが本来もっている心性・仏性を言うのであって、つまり「本来わたしたちは成仏しているのだ」(p.144)ということだ。では「起」とはそうした性質が起こるということかというと、そうではない。ややこしいことに「起」はすなわち「不起」なのであって、つまりありのままの状態にあって人はすでにほとけである、ということなのである。だから華厳においては人は常に性善である。というより、悪は善と対立するのではなく、善に包括され、呑み込まれてしまうのだ。
他にも本書には、現代の多元宇宙論を予見したかのような華厳のとんでもない世界観や、老荘思想と華厳の関係などについても触れられているが、これについてはまたいずれ、別の関連書籍を読んで深めてみたいところ。あと、本書を読んで気になったのは、華厳と禅を結ぶ位置にいるという「明恵」の存在。これもまた、なかなか一筋縄ではいかない人物と思われ、そのうち調べてみたい。