自治体職員の読書ノート

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【1666冊目】ハインリヒ・フォン・クライスト『チリの地震』

チリの地震---クライスト短篇集 (KAWADEルネサンス/河出文庫)

チリの地震---クライスト短篇集 (KAWADEルネサンス/河出文庫)

未婚の男女が相通じて子をなし、醜聞となった。男は牢獄に監禁されて首をくくろうとし、女は今まさに処刑されようとしていた。ところがそこに地震が起きた。牢獄は崩れ、絞首台も消し飛んだ。すんでのところで命を救われた男と女は再会した。

折しも教会では「さらなる禍から護り給わんことを天に請うべく」ミサが執り行われようとしていた。奇しくも地震によって命を救われた男と女は、神への感謝をあらわすべく教会に向かった。教会では神への感謝が述べられたが、聖職者の話はそれだけにとどまらず、市の道徳的頽廃にもおよんだ。「ソドムとゴモラも目にしたことのない蛮行ゆえに、余は市の名誉を剥奪するものなるぞ。かかる蛮行が地震によってさえなお根絶せしめられなかったのは、ひとえに神の寛容の賜物にすぎぬ」


危険を感じ、脱出を試みようとしたが、遅かった。誰かが呼ばわった。
「しりぞいて道をあけられよ、サンチャゴの市民諸君、かの神にそむける者どもがここに居合わせておりますぞ!」人々は二人を引きずり出し、叫んだ。「そいつらは神をけがす人間どもだ!」「彼らを石もて殺せ!」「この女だ! この女だ!」「やつをぶち殺せ!」「ついでにその私生児も地獄に送れ!」……

一度は人々によって処刑されそうになり、地震によって奇跡的に助かった男女が、結局は人々によって虐殺される。表題作「チリの地震」の救いのなさ、酷薄さはどうだろうか。

他の作品もすさまじい。「聖ドミンゴ島の婚約」では、策略によって婚約相手の白人を逃がそうとした娘が、誤解によって当の婚約相手に殺される。「拾い子」も「決闘」も、誤解と悪意が絡み合って無残な結末に至る。

「人物たち一人ひとりはあくまでも彫刻的な硬質の輪郭において際立っているのに、彼らの間には接触不能の透明な薄膜が張られでもしたように言葉が通わず、ために人間関係がたえず猜疑と不信の非伝導物質にさえぎられて悲劇の淵に引き込まれていく」(p.235-236)


訳者の種村季弘氏が解説で書くこの言葉が、すべてを言い尽くしている。叙情ではなく叙事に徹し、そのことでかえって、人間存在の悲劇性をあざやかに浮かび上がらせる。著者は生涯にわずか8篇の短篇小説(本書にはそのうち6篇を収録している)、8篇の戯曲を残して34歳で死んだというが、それにしてはこの完成度、この密度はどうだろうか。

文章は電気が通っているようだ。一語たりとも無駄な言葉がなく、一節たりとも無駄な描写がない。種村氏の訳文も絶品だ。文章の圧倒的なテンションは、日本で言えば深沢七郎の『楢山節考』レベル、あるいは夭折した作家で言えば芥川龍之介中島敦だろうか。だが背負っているモノの大きさは、ぜんぜん違う。

なお本書には2篇のエッセイが収められており、これがまたなかなか面白い。「話をしながらだんだんに考えを仕上げていくこと」はまさにタイトルのとおりなのだが、人に話すことで考えがまとまったり進んだりする、という現象について書いている。「マリオネット芝居について」は対話形式だが、人形の優美性を説いたくだりは、ほとんどハンス・ベルメールの先取りだ。

「優美は、意識がまるでないか、それとも無限の意識があるか、の人体の双方に、ということは関節人形か、神かに、同時にもっとも純粋に出現するのです」(p.231)こう語るC.氏に「私」は言う。「とすると…私たちは無垢の状態に立ち返るためには、もう一度認識の樹の木の実を食べなければならないのですね」

「さよう」とC.氏は答え、こう言うのだ。「それが、世界史の最終章なのです」

クライストは人間に絶望していたのだろうか。意識に絶望し、意識を超えた人形と神になることを、人間に期待していたのだろうか。そして他人に絶望し、自分自身をすら見放して、拳銃自殺による心中という最期を選んだのか。

古典主義にもドイツ・ロマン派にもあてはまらない「孤高の作家」。だがそれゆえに、21世紀の日本でも、クライストは十分に通用する。今回、初めて読んだが、これはとんでもない作家、とんでもない作品だ。オススメ。