【1937冊目】佐佐木隆『言霊とは何か』
『広辞苑』で「言霊」を引くと「言葉に宿っている不思議な霊威。古代、その力が働いて言葉通りの事象がもたらされると信じられた」とある。『古語大辞典』でも「言語には霊力がこもっていて、その霊力が禍にも福にも働くと考えた」等々と書かれているという。
だが、本当に古代日本人は、言葉自体にそんな力があると考えていたのだろうか……というのが、著者が提示する疑問である。例えば、万葉集に載っている次の歌はどうか。
「言霊の 八十の衢に 夕占問ふ 占正に告る 妹相寄らむと」
(言霊の多い、多くの道が分岐する辻で(人のことばを聞いて)夕占をする、その占いにはっきりと出た。彼女は私になびき寄るだろうと)
※現代語訳は本書による
著者が注目するのは「占」である。古代(現代でもそうだと思うが)において、「占」とは神意の現れだった。上の歌において「問ふ」相手は神であって、「言霊の八十」は、こうした占いの結果において、「神意がさまざまなことばにこもったり現れたり」することなのである。
著者はこの歌に限らず、万葉集における「言霊」の使用例を一つ一つ検証した上で、言霊とは「神のもつ霊力」であったとする。先ほどの辞書の説明では、言霊とはそれ自体が力を持っているとしていた。だが、著者によれば、それはコトバ自体ではなく、あくまで神の力なのである。言い換えれば、コトバ自体に霊力を感じるというのは一種のアニミズムであるが、古代日本人はそうした原始的なアニミズムの段階を脱しており、あくまで神を介してコトバの力というものを考えていたのだ。
したがって、こうした仮説に従えば、人間が発したコトバは、それだけでは本来力を持たないことになる。あくまで霊力をもったコトバの発言者は神なのだ。人間の発したコトバが現実を左右するようなケースは、何らかの形で神が介在している。そのことを著者は『古事記』や『日本書紀』などの事例を挙げながら確認していく。もっともその「神」は、あくまで日本的な多神教の神であり、西洋のような一神教的な神ではないので、お間違えなく。
事例を見ていく中でちょっと面白いのは「夢合わせ」の話である。これは、見た夢の内容を第三者が解釈し、口に出すことにより、その解釈が現実化するというものだ。一種の夢判断であり、フロイトを思わせるものがあるが、興味深いのは、悪意を含んだ解釈であっても、口に出されると現実化してしまうこと。しかも、他人の夢であっても、夢合わせの「横取り」ができてしまうという。
『宇治拾遺物語』に載っている説話である。国守の長男が夢解き女に夢の内容を語り、判断を受けているところを、郡司の息子が盗み聞きした。その判断がたいへんすばらしいものだったので、郡司の息子は夢解き女に「国守の長男が見た夢を自分のものにしてほしい」と頼んだところ、夢解き女は「さっきの人が言っていた夢と少しも違わないように、自分が見た夢として話せばよい」というのだ。
つまり、他人が見た夢を自分が見たように語れば、実際に夢を見ていなくても、夢合わせの結果を自分のものにできるというのである。おそろしいことに、実際に夢を見た国守の長男はその恩恵を受けることなく、不遇のまま終ったという。物語では「夢を人に語り聞かせるものではない」というオチがついているそうだ。