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自治体職員の読書ノート

仕事は福祉系。読書は雑食性。業務連絡はnsa59871atmarkexcite.co.jpへどうぞ。

【1651冊目】いとうせいこう『想像ラジオ』

せつなさ・いとおしさ・なつかしさ

想像ラジオ

想像ラジオ

小説の始まりから、「たとえ上手のおしゃべり屋、DJアーク」が一人でしゃべっている。どうやら「想像ラジオ」というラジオ番組であるらしい。だがなんとこの番組、実際のラジオ番組ではなく、聴き手の想像力によって聴こえているのだという。

「あなたの想像力が電波であり、マイクであり、スタジオであり、電波塔であり、つまり僕の声そのものなんです」(p.8)


それだけではない。DJアークはどうやら、すでに死んでいるらしい。津波に呑まれ、高い杉の木のてっぺんにひっかかって。電話をかけ、メールを送っているリスナーも、どうもみんな死んでいるようだ。「冷たい水の底へ…ゆっくりと落ちて」いる匿名希望の女性とか、「ただただ二人で部屋の隅に背中をつけて半ば横たわっ」ている大場キイチさんとミヨさんの老夫婦とか。彼らはみんな、東日本大震災で、急激で理不尽な死に見舞われ、キイチさんの言葉によれば「魂魄この世にとどまりて」いる死者たちなのだ。

う〜ん、これは、かなり微妙なテーマである。そんなに簡単に死者の声を拾い上げてしまってよいのだろうか、とも思う。受賞を逃した芥川賞の選評で、小川洋子が「死者の声はあくまでも無音だ。無音を言葉に変換するのではなく、無音のままに言葉で描くのが小説ではないだろうか」とのコメントを寄せているが、まさにその点が本書の違和感だ。島田雅彦も「司会があまりに芸達者なので、ゆっくり死を思うことができない葬儀に列席しているような感覚」という絶妙の評を書いている。

だが、それをもってこの小説を批判したり、否定する気にはなれない。むしろ私は、まだまだ生煮えの素材を、熟成させる時間を惜しんで調理したような気ぜわしさを感じた。それはある意味、たいへんまっとうな姿勢だと思う。

震災と津波のあれほどの経験を、そう簡単に「熟成」などできるものではない。そもそも、おそらく、多くの日本人は、あの経験を自分の中に位置づけ、しかるべき意味を与えることができていない。もちろん、私自身を含めて。

ちょっと脱線するが、例のNHK朝ドラの「あまちゃん」が素晴らしかったのは、震災をきちんと物語の中に縫い込み、日本人の経験としてある程度共有化することができていた点にあると思う。クドカンはまさにあのドラマで、震災後の「日本人の物語」を作り上げて見せたのではなかったか。

で、本書も震災がテーマになっているわけだが、こちらは生煮えであることは百も承知で書かれた小説であると思うのだ。経験を心の中にじっくり沈殿させ、熟成させることよりも、それができていない著者自身の心情ごと、正直にさらけ出してみせるほうを選んだ。本書の第2章に出てくる「心の領域に土足で入り込むべきじゃない」といったような、震災ボランティアたちのある種青臭い議論をそのまま提示したのも、たぶん同じこと。

そうした点で「分かったようなことを言う」震災後に書かれた多くの小説よりも数段、私は本書に好感をもった。死者の声を聞くというある意味陳腐で危険なつくり方も、そこに反対意見をナマのままぶつける手法も、あざといというより、むしろ著者の正直さ、率直さを感じた。

「木村宙太が言ってた東京大空襲の時も、ガメさんが話していた広島への原爆投下の時も、長粼の時も、他の数多くの災害の折も、僕らは死者と手を携えて前に進んできたんじゃないだろうか? しかし、いつからかこの国は死者を抱きしめていることが出来なくなった。それはなぜか?」
「なぜか?」
「声を聴かなくなったんだと思う」
「……」
「亡くなった人はこの世にいない。すぐに忘れて自分の人生を生きるべきだ。まったくそうだ。いつまでもとらわれていたら生き残った人の時間も奪われてしまう。でも、ほんとうにそれだけが正しい道だろうか。亡くなった人の声に時間をかけて耳を傾けて悲しんで悼んで、同時に少しずつ前に歩くんじゃないのか。死者と共に」
「たとえその声が聴こえなくても?」
「ああ、開き直るよ。聴こえなくてもだ」(p.132-133)


……私たちは、ひょっとして、あまりにも早く、あの震災を忘れようとし過ぎているのかもしれない。