【2822冊目】遠藤周作『海と毒薬』
戦時中に起きた米軍捕虜の生体解剖実験を扱った、遠藤周作の代表作のひとつです。
本書に出てくる人々はみな、どこか不気味です。
生体解剖というとんでもないことをしようとしているのに、
全員が「なんとなく流されて」その行為に参加する。
色恋や出世欲が複雑に絡んでいるものの、
それを超える「倫理」は、ついに登場することはありません。
著者は、そうした姿を典型的な日本人像として描こうとしています。
それと明確に対比されているのが、ヒルダというドイツ人女性の描き方でしょう。
「病人の恥ずかしさや気づまりに気がつか」ず、
「男の子のように大股で病院を歩き」、
「ビスケットをくばり、患者をせきたてて汚れ物をバスケットに入れて歩く」ヒルダ。
彼女は、自らの善意を信じて疑いませんが、それゆえに日本人からすれば、押し付けがましく鈍感にさえ映ります。
しかし、その後に起きる出来事は、ヒルダ自身の中にある揺るがぬ正義の心をうかがわせるのです。
それに比べて、本書に出てくる日本人たちは、いろんなことに気がつくし、気を回します。
いわゆる「空気が読める」人たちなのです。
ところが一方では、ある病人を「どうせ助からないから」といって実験的な手術の対象にしようとしたり、
医師の指示だからといって気胸に苦しむ患者に麻酔薬を打って殺そうとしたり、
みんな、どこか倫理観が壊れている。
その延長線上にあるのが、本書の主題である生体解剖実験なのです。
著者はおそらく、こうした姿を日本人独特のものとして描き、
それを通して「日本人とは何か」という問いかけをしているように見えます。
そうした読み筋を否定するわけではないのですが、
私は本書から、ちょっと違った印象を受けました。
2つあります。
1つは、ユダヤ人の大量虐殺を仕切ったアイヒマンについて哲学者ハンナ・アレントが言った「悪の凡庸さ」という言葉を思い出しました。
本書に出てくる関係者たちもまた、凡庸極まりない俗物揃いです。
それが「なんとなく」「雰囲気に流されて」、おそるべき行為に至るのが怖いのです。
もちろん「命令に従った」アイヒマンと「なんとなく流された」日本人という違いはありますが、
彼らには、どこか人間のもつ本質的な「悪」に通じるものを感じるのです。
2つ目は、この間読んだ國分功一郎の「中動態」というフィルターでこの小説を読んだらどうなるだろうか、ということでした。
明確な意志を持たず悪をなすことを著者は問題視しているのかもしれませんが、
それもある意味で「中動態」的な、能動態でも受動態でもない状況なのではないでしょうか。
そして、彼らが罪の意識を持ちうるかどうかは、信仰や倫理によってではなく、その行為と意志が切り離されているかどうかにこそかかっているのではないでしょうか。
まあ、特に後者についてはまだまだ自分の中でも生煮えの理解なので、誤っているところも多いと思います。
でも、意志と倫理と責任の関係を考えるにあたって、従来とは違った観点を得るためには、中動態という考え方はなかなか有効であるようにも思われるのです。
いずれにせよ本書は、単なる「日本人論」に回収してしまってはもったいない、深みと広がりをもちうる小説だと思うのです。
最後までお読みいただき,ありがとうございました!
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