自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【1650冊目】田中泯・松岡正剛『意身伝心』

意身伝心: コトバとカラダのお作法

意身伝心: コトバとカラダのお作法

ダンサーと編集工学者。一見、異色の取り合わせだが、読めばよむほど、二人の言葉が恐ろしいほど共鳴し、共振している。二人の縁は30年以上になるとのことだが、そういう時間の長さだけではない、根本的なところでの共通性が感じられた。

結論から言うと、最近知りたいと思っていたことのほとんどすべてが、この一冊に書いてあった。いや、別に踊りのことや編集工学のことを知りたかったワケではない。そういう「主語的」なところではなく、もっと無名的で述語的な部分で、ここのところの自分の関心の「核」に、この本は触れてきた。

感じ入ったくだりは無数にあるのだが、ここでは二人の言葉が響きあっている部分を、特に選んで抜き出しておきたい。どういうところに自分が感応したか、というところを残しておいて、また期間をあけて読んでみたい。2回目は全然違うところに付箋を貼りそうな予感がある。読み手のコンディションさえも映し出してしまう懐の深さと多様性が、この本にはある。

では、後は引用で。さあ、どうぞ。ちなみに「Mt」が田中泯、「Sm」が松岡正剛だ。

「Mt:書くというのは、自分のカラダをもとにした記憶の中から、現在の自分の思考に同伴してくれる何かを引っ張り出してくる作業でしょう。考えてみると、引っ張り出せるものといえば、子どものころのことばっかりだった

Sm:きっとコトバが何かに乗るということも、そのときに実感できたんでしょう。コトバというのは文字だけじゃなくて、じつは子どものころ得意だった歌にも音楽にも、木にも虫にも、もちろんカラダにも乗っていたはずなんですが、そういうことはコトバというものに向き合おうとしてみないとなかなか気づかないものなんですよ」(p.24)

「Mt:コトバというものも、意識や考えがあってそれを表すのではなくて、もっとコトバそのものがコトバを考えてくれるんじゃないかと思うんです。だからコトバを「使っている」と思ってしまうと、掴みそこねることがある。

Sm:その通りです。コトバは化学であって兵器ですからね。コトバは発した瞬間に、つねに意味を吐き出しているのですが、でも意味を消すコトバというのもありうるんです」(p.79)

「Mt:松岡さんは「私は本である」ということを「連塾」のときか何かにしゃべってましたよね。ぼくも、「私はダンサーです」ということの先にはもう「私はダンスです」と言うしかないとずっと思っていたし、つぶやいてもいた。

Sm:ダンスとか本であろうとすれば、好きに歳もとれるし、いまでも十代にもなるし、伸縮自在なんですよね。そういうものが、カラダとか顔に出るんでしょうね」(p.123-124)

「Mt:カラダの中に実は「外側」があるんです。(略)カラダの中に湖があったっていい。池があったって沼地があったっていい。そこにはマムシがいるかもしれない。これは飛躍じゃなくてかなりリアリティのある話なんです。

Sm:カラダや記憶の中に、土くれとか虫けらとか雲のちぎれ方があるというところまでは、ぼくも何となくわかる。ぼくの中にもダリアの花とか濡れた砂とか石ころのようなものがある。でもぼくにはなくて泯さんにあるものは、空間の体験を時間に置き直せるということです」(p.239-240)

「Mt:踊りの場合は独自なものなんて最初からないんですよ。やはり踊りには何か資源的(←始原的?)な種というものがあるはずで、その人の独自性だとかオリジナリティという問題ではないんですね。

Sm:編集も同じ。一番重要なスコープは類似です。相似律です。その物差しがいつも自分の中でどの程度研ぎ澄まされているか」(p.267)

「Mt:基準値とか標準値はすでに知っているものばかりでしょう。見たことのないもの、体験したりしていないことのほうが、まだまだ無数にありますよ。そういうものに遭遇したときにどう動くか、どう考えるかということが一番大事なポイントだろうと思う。そのときに「公」だけでも「私」だけでもどうにもならない。やっぱり公私混同でなければうまくいかないと思うんです。

Sm:公私混同というのは、自他同根と言い換えてもいいと思うんです。ぼくには、その「自」と「他」をどれくらいすばやく取り替えるか、あるいはできるだけゆっくり取り替えていくか、積木細工の部品をひとつひとつ入れ替えながら、全体が崩れないようにどこを取り換えるかを鮮明に見分けているところがある」(p.274)

「Mt:前進とか進化とかいうコトバは怪しいですよ。前に行くことだけを前進と呼んでいいのかとも言える。

Sm:関係と状態こそ、いちばん大事なものだよね。それは一義的に表明できるものではないし、説明できないものであるでしょう」(p.291)

「Sm:(ジャッジメントをすることについて)ぼくの場合はもうはっきりしている。一番大事なことは遅らせる。(略)たんに遅らせるんじゃないんです。そうすることで大事なことがたまる。もちろん自分の能力とも関係あるんだけども、総じて大事なことは遅延させることによって多義性に達することができます。

Mt:ぼくはだいたい「待てよ」の人間ですから、ジャッジはほとんど後からですね。自分がしゃべっていても「待てよ、待てよ」と思いながらしゃべっているところがありますから」(p.293-294)

「Mt:本当は人間というものは無限の数の人間を平気で行き交うことができる。たぶん松岡さんの言っている編集という作業も、ぼくが言っている踊りという作業もそこが共通しているんじゃないですか。やっぱり、一回ぽっきりの人生という与えられた時間で、最大限の旅をしていきたいですからね。

Sm:そうです、そうです。つねにおおいなる旅行者であり続けたい」(p.324)

「Mt:たくさんの制約やたくさんの管理を同時に受けているからこそ、私たちはおもしろく動くことができるし、考えることができる。何の制約も受けていないものは存在すらもしていない。ぼくはそんなふうに思いますね。

Sm:本気の自由に向かうために本気の制約に入るというのは大賛成。そのために自分の生まれた時代に立ち会ってみるということは欠かせないと思います」(p.330)


ふう。なんだか大量の引用になってしまったけど、ホントはこれでも全然足りない。でも、この引用の一つでも二つでも、何かのヒントになったとしたら、絶対にこの本自体を手に取って読むべきだ。たぶんその前後には、関連するヒントのタネがたくさん散らばっている。

われわれはカラダから離れることはできないし、コトバを離れることもむずかしい。そうである以上、カラダとコトバに、一度くらいは真摯に向き合ってみるべきなのだろう。本書はそのための絶好の指南書だ。オススメ。