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自治体職員の読書ノート

仕事は福祉系。読書は雑食性。業務連絡はnsa59871atmarkexcite.co.jpへどうぞ。

【1590冊目】藤本義一『鬼の詩/生きいそぎの記』

芸術・芸能・スポーツ

婚礼の日の夜、「お義父はんの意志を継いで、わいは芸人に堕ちたわ……」と言う落語家・桂馬喬に、新妻の露は言う。「ほな、これ以上堕ちへんというところまで一緒にいきまひょやないか」……

著者の直木賞受賞作「鬼の詩」の一シーンである。だが、ひたすらに堕ちていくのは馬喬だけではない。「贋芸人抄」で師匠の身代わりを務めさせられるゼニマルも、「下座地獄」で漫才の相方に捨てられて下座に戻る箱田鶴も、そしてその周辺の人々も皆、著者の描く人々はことごとく、それぞれの人生に応じて、ひたすらに芸人の地獄道を堕ちる。

自ら望んで堕ちているのか、否応なく堕ちざるをえないのか、読んでいるとそれすらわからなくなる。堕ちに堕ちて人生の底を見ることなしに、人を笑わせることなどできない、とすら思えてくるのである。今どきテレビに出ている「芸人」はどうか知らないが、著者の描く上方芸人の世界は、そのまま人生のどん底をもがき苦しむ地獄絵図だ。

読むほどに息が詰まる。あまりのやるせなさに言葉を失い、それでも這いずるように進む芸の道とはいったいなんなのか、と考えさせられる。彼らの死にざまもまた、言葉を失うほど壮絶だ。彼らにとって、人生とは芸であり、芸こそ人生。その死に方は悲痛この上ないが、それでいて、妙に底深い納得感がある。

そして、個人的にもっとも強烈だったのが、本書の冒頭に収められている「生きいそぎの記」だ。著者自身の映画監督・川島雄三との交流を描いたこの一作に、完全に魂を持っていかれた。

とにかく川島雄三の人物像がすさまじい。無頼で破天荒で自滅的でおそろしくねじくれた性格で、しかし著者は「あの人についていったら死ぬぞ」と周囲に脅されつつも、正面からぶつかり合い、議論をふっかけ、それでいて誰よりも監督のことを知り尽くしている。その舞台裏を書いた「師匠・川島雄三を語る」によると、監督とは喧嘩はしても「謝ってはいけない」のだそうだ。「「謝ってもすまないものが人間ですよ」という生き方」なのである。

そしてムチャクチャな言動の中に、珠玉の名言が、鋭利な刃のようにひらめくのが、またたまらない。だいたい最初、監督のもとで働こうと会いに行った時、監督はこう言うのである。

「人間の思考を、今、仮に百とします。思考を言葉にすると百の十分の一の十です。その言葉を文字にすると、そのまた十分の一です。思考の百分の一が文字です。文字で飯を食っていくには、せめて、思考の百分の二、いや、一・五ぐらいの表現ができないことには失格です」

これは素晴らしい。まさに真理であろう。他にも、次のような言葉が忘れられない。こういう言葉が出てくるようになるまでには、いったいどんな人生を送らなければならないのだろう。

「お世辞をいうのは、愛情のない証拠です。お世辞をいうぐらいなら、皮肉をいってあげた方が愛情です」

「映画屋は、明日の奇跡を信じなくてはいけないのです。今日書いてしまえば、もう明日はない。それは悲しいことだとは思いませんか」

「生き急いだ男、これは人間の本質かもわからない。だから滑稽、コッケイですよ」

「散らぬ花は、死んだ花でげすな」

でも、やっぱり決定版は、この名文句だろう。特に、監督が進行性筋委縮症に侵され、徐々に身体の自由が利かなくなる日々の中でこういう言葉が出てくるということを考えると、胸が詰まってしょうがない。

「花ニ嵐ノタトエモアルゾ
 サヨナラダケガ 人生ダ」