自治体職員の読書ノート

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【1385冊目】後白河法皇編・川村湊訳『梁塵秘抄』

梁塵秘抄 (光文社古典新訳文庫)

梁塵秘抄 (光文社古典新訳文庫)

古典新訳文庫。500以上ある歌から100を選び、かなりぶっとんだ現代語訳を仕掛けている。

梁塵秘抄平安時代の流行歌ともいうべき「今様」のセレクションだ。メインカルチャーに対する当時のサブカルチャーともいえる。しかも、これはタダの流行歌ではない。今様の主な担い手は、遊女や傀儡子(くぐつ、人形つかい)等のアウトサイダー的な下層民であったのだ。

おもしろいのは、なんとこれに、当時の貴顕中の貴顕、後白河法皇がハマったということだ。そのハマりようは尋常ではなく、ほとんど「狂った」と言ってよいほどだったらしい。

もちろん当時の芸能民であるから、下層とはいっても宮中に召し出されて歌い、舞うこともあっただろう。だがそれにしたって、下層民の芸能に当時最大の権力者であり身分も最高級であった後白河法皇が熱中し、「声を嗄らし、喉を潰すこと三度、それでも歌い続けた」ほどの狂いを見せたのは、やはりフツウではないように思う。

そんな当時のハイ・ソサエティとロウ・ソサエティの「ありえない」結合が、梁塵秘抄というカタチで、今様を、つまりは平安期の庶民のメンタリティと芸能民の悲哀を現代に伝えた。これって、考えてみると、ある種の奇跡のようなものだったのかもしれない。

となると、問題はそのメンタリティをどうやって現代によみがえらせるか、ということになるのだが、本書ではなんと「演歌調」をメインに、相当に思いきった訳を施している。いや、ここまでくると訳というより読み換え、歌い替えというべきか。なにしろ「馬」は「スポーツカー」、当時の博打打ちの名前は「鶴田浩二高倉健藤純子」、「小屋」は「アパートの部屋」なのである。ここまできたら、メロディをつけてカラオケでも歌えるようにしてほしい。

ただ、ひとつ不満があるのは、仏教への信仰を歌った「法文歌」というジャンルがあるのだが、これを全部「仏様抜き」で男と女の歌のようにアレンジしてしまっているところ。確かに演歌で仏様が出てきたら辛気臭くて大変だが、それにしてもこれはあまりにも換骨奪胎し過ぎではないかと思うのだ。例えば、こんな感じ。

我等は薄地の凡夫なり
善根勤むる道知らず
一味の雨に潤いて
などか仏に成らざらん

これが本書では、こういうふうに「現代語訳」されている。

わたしは バカな 女です
いいことも 悪いことも 何も知らない
ただ あなたの 言葉だけがたよりなの
ついて行くわ たとえ 雨が降っていようとも
あなたが 歩いていくところへ

確かに、演歌ならいかにも「ありそう」な歌詞であるのだが、問題は元々の歌が「われわれのような下層の、悪いことばかりしている者が成仏できるのでしょうか」という、つまりはまさに「悪人なおもて往生せん」の悪人が仏様にすがりつく歌である、ということだ。

それを男と女の話にしてしまっては、歌に込められた思いそのものが変わってしまうことになる。まあ確かにこれはこれで面白いが、阿弥陀様の慈悲にすがる彼らの悲哀とそれを突き放して歌う感性は、これではまったく生きてこない。これはさすがに、ちょっとやりすぎなんじゃないだろうか?

まあ、そんなのもあり、感心するような「名訳」もありの、変わり種現代語訳集だ。ちなみにオリジナルもすべてついているから、ご心配なく。まあ、演歌が果たして21世紀の現代の「今様」なのか、という問題もあるが……ちょっとこの訳者さん、昭和ノスタルジーの世界で時代が止まっているかもしれない。