【1965冊目】テツオ・ナジタ『相互扶助の経済』
グローバリズムとTPPだけが経済ではない。そもそも経済というコトバの由来は「経世済民」で、これは「世を治め、民を救う」という意味だ。現代の「経済」は、そこからずいぶん遠くにきてしまったが。
かつての日本では、少なくとも「済民」の名に値する経済が存在した。それは民衆の間に広まった相互扶助組織であり、「無尽講」や「頼母子講」などと呼ばれた(東日本では「無尽」、西日本では「頼母子」がよく使われたらしい)。ちなみに「講」とは、もともとは仏教講話を聞くための集まりを指していたが、転じて人々の結社的な集まりを意味するようになった言葉である。
無人講や頼母子講が必要となった一因は、政府(幕府や藩)の、民衆の窮乏状態への無関心にあったようだ。農民にしてみれば、飢饉がいつ起きるかは分からない。飢饉が起きても「お上」は年貢を取るだけでアテにならないのだから、自分たちでなんとかするしかない。そこで、人々は年貢を収めた残りの収穫(収益)のうち一部を取りのけ、いざという時のために蓄えておいたのである。
本書では、例えば仙台近くの村にあった「縄無尽」が紹介されている。これは、各世帯が毎月、一定の長さの縄を作るというもので、作られた縄はまとめて保管され、半年に一度、市場に持ちこまれ、販売された。その売上げは村の共有財産とされ、個別の世帯が窮乏した際の貸付けのほか、村全体のために商品運搬用の船舶を購入するなど、いろいろに使われた。興味深いことに、武士や寺・神社への貸付は堅く禁じられていたという。縄無尽の資金は、あくまで村という農業共同体のために用いられたのだ。
著者は、こうした事例をひもときながら、背景には自然と緊密に結びついた民衆思想があったことを明らかにしていく。飢饉、洪水、地震などの自然災害が絶えない日本だからこそ、それに備えるものとしての無尽講や頼母子講が広まったのだ。自然を第一原理と捉えるこうした思想は、伊藤仁斎、貝原益軒、三浦梅園、そして安藤昌益といった錚々たる江戸時代の思想家たちによって受け継がれ、深化していった。
中でも集大成といえるのが、江戸末期における二宮尊徳の報徳運動であろう。尊徳は自らの農村改革の実践をもとに、従来の無尽講・頼母子講を改良し、自身の思想を結びつけて計画的な相互扶助システムを完成させたのだ。
それによると、まず天から人が与えられた収穫=「天分」がある。そのうち4割が年貢に取られ、残りのうち半分が家族の世帯維持に充てられる(分内)。このうち1割は、緊急事態に備えて別にしておく。残った半分は、それ以外の必要に充てるための「分外」であり、その半分は「内」つまり家族や自分のための貯金とされ、残りの半分は他人に譲るものとされ、これが実際には基金(報徳金)への預け入れとなった。
こうした講、あるいは報徳運動は、明治以降も続けられた。その際の紆余曲折(近代的な金融制度の導入を主張したのが当時農務官僚だった柳田国男で、岡田良一郎がそれに反対し、相互扶助経済を残すべきと主張したという)は本書にくわしく書かれている。江戸時代の政府は無尽も報徳も基本的には野放し(見て見ぬふり)だったが、明治政府はこれを銀行としてコントロールしようとしたという。そこで生まれたのが「無尽銀行」という奇妙な銀行で、その命脈は、戦後は「相互銀行」と名を変えて、今に至るまで続いている。
だから、こうした「済民」の相互扶助経済システムは、今も決してなくなったわけではないのである。例えば生協はもともとそうした理念で始まったのだし、本書ではあまり触れられていなかったが、信用金庫や信用組合も、おおもとの理念は「講」的な相互扶助経済にあったのではなかったか。
だが、いかんせん、基礎となる「講」つまりは結社的、クラブ的な人の集まりが、今はなかなか機能しない。特に、本当に相互扶助的なシステムが必要な一般市民の中で、こうした共同体的な、クローズドな組織が機能しづらくなっている。著者はその中で、阪神淡路大震災や東日本大震災でのボランティア活動に光明を見いだしているようだが、それが継続的な相互扶助の仕組みにつながっていくとまでは言えないように思う。
そしてもうひとつ、本書の「読みどころ」は、自然と民衆を中心に据えた思想家の系譜を明らかにしたという点にあるのではないだろうか。先ほど挙げたような、仁斎、益軒、梅園、昌益、尊徳といった流れは、朱子学や国学の「表の」流れを追っているだけではなかなか見えてこないものであり、なかなか面白い。こうした独自の実践的な思想の流れは、今は誰が、どのように受け継いでいるのだろうか。