自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【1340冊目】加賀野井秀一『猟奇博物館へようこそ』

猟奇博物館へようこそ ─ 西洋近代知の暗部をめぐる旅

猟奇博物館へようこそ ─ 西洋近代知の暗部をめぐる旅

見世物小屋のフリーク・ショウ。肌どころか「内臓」をあらわにした美しいヴィーナス。積み重なる死体のジオラマ。腐敗する死体像があるかと思えば、腐ることのない聖人の遺体が。髑髏のシャンデリアもあれば、背中の皮膚を裏返しにした「解剖学の天使」(表紙イラストを参照)も。筋肉血管剥き出しの騎馬像、頭部をタテに割られた婦人の顔、人体をバラバラにして作ったテーブル……。

理性も道徳も吹き飛ばす、圧倒的なまでに異様な「作品」の数々を陳列した本書は、まさに猟奇博物館の名に恥じない一冊だ。写真もふんだんに載っており、電車の中で広げて読むのはやめた方がよい(食事中に読むのも厳禁だ)。

それにしても、このような異様な作品の系譜は、いったいどこから生まれてきたのだろうか。中世以来の「メメント・モリ」(死を想え)の芸術的実践だろうか。あるいは、人間を過度に精神的で理性的な存在ととらえる風潮への反発なのだろうか。いやいや、そんな小難しいリクツをこねるまでもなく、単なる「怖いもの見たさ」こそが実は最大の原動力だったりして。

いずれにせよ、表向きの西洋美術史には決して載ってこない「裏の美術史」が、どこかに脈々と流れていることは確かなようだ。それはカバラフリーメイソン錬金術などの神秘主義系譜ともつながっているように思われる。地上の事物のはかなさを描いた「ヴァニタス」画なるものも、西洋には存在するという。日本的な「はかなさ」とどこか相通ずるようで興味深い。

それにしても、さっきは「創る側」について書いたが、問題は(私も含めて)こうしたおぞましい作品を観る側のことだ。このような「見てはならないもの」を見たがる心理とはいったいなんなのか。

この点について著者は「視覚は離れた場所からの所有」というメルロ・ポンティの言葉を引いたうえで(著者の本業はメルロ・ポンティの研究者なのだ)、モノが光を当てられる一方、見る側が暗がりに立つ見世物小屋を例に「つまるところ主体は、視覚によって対象物を離れたところから所有し、同時に、自己の存在を闇によって隠蔽するのである」(p.43)と喝破する。

つまりここにあるのは、見る側(自分)を隠したまま「安全に」死の恐怖を体験したいという、ずいぶん虫のいい近代人的発想なのだ。その延長線上には、死を想っているようでいて実は死を消費しているにすぎない現代人の姿があるのかもしれない。しかしそれでも、何かの拍子に「死」に胸倉をわしづかみにされることだって、ある。「猟奇」とは、そういう不意打ちに出会うことでもあるのである。