自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【450冊目】メルヴィル「白鯨」

いやはや、いろんな意味で桁はずれの小説であった。

大学生の頃だったか、「白鯨」には一度挫折している。「てっとり早い」現代小説ばかり読んでいた身には、あの異様な饒舌、ストーリー本体に匹敵する分量の鯨や捕鯨に関する「博物学」の膨大さ、白鯨に遭遇するまであてどなく海をさまようという物語の茫漠たるさまについていけないものを感じ、確か前半4分の1くらいのところでページを閉じたのだ。それ以来、「白鯨」といえば19世紀の読む本もろくにない世界の住人には名作だったろうが、現代向きの小説ではないなと思い込み、ずっと放置してきたのだ。

それを今回、思い立って読んだのだが、やはり本編とほぼ無関係の「解説」の分量には閉口した。しかし、それはそれとして読み、話の展開を急がず作者のペースに付き合おうかと思えるくらいには、私も変わったとみえて、今回は最後まで読むことができた。そして分かったことは、本書の「凄味」はひとえにラスト10分の1くらいのところに濃縮しており、それまでの饒舌や、ピークォド号の乗組員の描写や、特にエイハブの人間離れした妄念は、エイハブが白鯨モービィ・ディックと出会ってからの数章のためのほとんどお膳立てにすぎなかった、ということであった。

それほどまでにこの小説のラストは圧巻である。というより、この部分、エイハブとモービィ・ディックの対決において、この物語は神話の域へと高められている。圧倒的な「神」に立ち向かう「人間」の無謀さと執念、しかしその執念が悪魔的なレベルに達することで人間が神を打倒しうるという恐るべき暗示。しかし、その醍醐味を味わうためには、やはりこの饒舌な物語を最初から読まなければならないのである。

なお、これは本筋とは関係ないのだが、本書の背景となっているアメリカの捕鯨は主に19世紀頃に世界中の海で実際に行われていたものであり、その主目的は当時の燃料となっていた「鯨油」であった。日本の伝統的な捕鯨では「捨てるところがない」とされていた鯨の死体も、彼らにかかっては、油部分のみを抜かれた後は鮫に食い荒らされるままであった(本書にもそうした描写がたびたび登場する)。こうした捕鯨活動の規模は、当時の日本などとは比べ物にならない規模であったらしく、これが現在の鯨資源の枯渇を招いた主因であるとさえ言われている。何やらアメリカ大陸におけるバッファローの運命を思い起こさせるものがある。