自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【168冊目】 酒見賢一「墨攻」

墨攻 (新潮文庫)

墨攻 (新潮文庫)

春秋戦国時代の中国で「非攻」「兼愛」を唱えながら、守戦となると無類の強さを発揮したとされる「墨家」。しかし、当時は儒者をしのぐ一大組織であったにもかかわらず、彼らの存在は秦の中華統一とともに闇に消え、明清の時代に至るまで中国史の中では無視され続けてきた。本書は「墨家」のひとり革離を主人公に、そのすさまじい防城術を描いた小説である。森秀樹によって漫画化され、さらに最近は映画化もされたため、ご存知の方も多いと思う。

とはいっても本書は厳密な意味での歴史小説とはいいがたい。そもそも墨家については資料自体が十分に残っていないため、時代考証もままならない。しかしその中で、本書はわずかな資料を著者一流の想像力で自在にふくらませ、超一級のエンターテインメント小説に仕上げている。革離の展開する戦術は防御一辺倒でありながら、おそろしく合理的で容赦がない。その戦術展開の面白さだけでも、本書は読むに値する。南伸坊氏の挿画も、シンプルでどこかとぼけた味わいが酒見ワールドの世界観とぴったりである。

墨家については謎が多い。その思想はキリスト教にも通ずる普遍性をもち、その技術は近代にも通用する水準のものが多く(墨家は職人集団であったとされる)、その戦術は当時の水準をはるかに抜きん出ていた。彼らがなぜ歴史の闇に消えてしまったのかは中国史の巨大なミステリーであるが、もし秦が墨家を重用し、その思想や技術を後世に伝えていたら、おそらく中国史は(あるいは世界史全体も)大きく変わっていただろう。もっとも、そのような覇権国家の走狗として侵略に手を貸さないのが墨家の矜持であろうし、そうである以上、歴史の闇に消えるのは彼らの宿命であったのかもしれない。