【1857冊目】椹木野衣『アウトサイダー・アート入門』
アウトサイダー・アートとは、何か。
この問いが、本書の出発点であり、同時に終着点である。アウトサイダーとは、主流から外れた者、既成の国家や社会秩序からはみ出した者をいう。だがそれは、必ずしも好きこのんで「外れている」とはかぎらない。真摯に自らの負に直面し、世界と向き合う者は、結果として既成の枠組みからは外れざるを得ない。その「切実な苦しみ」からこそ芸術が生まれ、また、そうした者こそが芸術を必要とする。
芸術とは、そもそも「そういうもの」である。そのように世界と向き合い、自らの闇と向き合った結果生まれたものこそが、著者のいう「アウトサイダー・アート」であり、つまりは芸術そのものなのだ。だから、正規の美術教育を受けたかどうか、既成の団体や「業界」の内側にいるかどうかは、それが芸術かどうかとは無関係である。
本書には、無名で我流のアーティストたちに混じって、ルイーズ・ブルジョワ、ジャン=ピエール・レイノー、田中一村ら、それなりに名声を獲得している者も混じっている。彼らに共通しているのは「ひとの生から絶対になくすことができない負の宿命と、たったひとりで拮抗」(p.298)してきたこと。そして、「それこそが芸術のもっとも根源的な姿」であると著者は言う。
それにしても、本書に登場するアーティストたちの半生と作品は驚くべきものばかり。郵便配達夫として一日30キロを歩きつつ、拾った石を組み上げて巨大な「理想宮」を築き上げたフェルディナン・シュヴァル。母の死と妹との離別を生涯にわたって抱え、誰に見せることもなく膨大な長編小説と挿絵にあたる300枚の水彩画を残して死んだヘンリー・ダーガー。やはり幼少期の傷を常に掻き立てて制作のエネルギー源としたルイーズ・ブルジョワ。
中でも驚いたのは「アーティスト」として出口なおと出口王仁三郎が紹介されていたことだ。戦前の一大新興宗教「大本教」の教祖である彼らが、なぜアウトサイダー・アーティストなのかといえば、単純に作品そのものがすぐれていたからだ。しかしその多くが、政府による大本教大弾圧の中で破壊されてしまったという。残っていても、出口なお、王仁三郎といえば宗教家のイメージが強すぎて、芸術家として扱われることはめったにない。
それにしても、これだけさまざまな有名・無名の作家が紹介されると、やはり読み手としては「図像」がほしい。各作家1ページという本書の配分ではまったく物足りない。本全体のボリュームとの兼ね合いもあるのだろうが、本書のような本では、文章より作品そのものを示すことが、何よりアウトサイダー・アートの本領を伝えることになるはずだ。