【2314冊目】オルダス・ハクスリー『すばらしい新世界』
ひところ、某所で「古典は必要か否か」が議論になっていたが、本書で描かれているのは「古典不要論」の極限のような未来。もっとも本書自体が1932年に書かれており、立派な「古典」なのだけれど。
ディストピア小説はいろいろ読んできたが、本書はある意味究極かもしれない。なにしろ、その世界の住人が、すっかりそこの生活に満足してしまっている。いや、正確には、満足するよう訓練されているのだ。
そのための手段として「古典的条件付け」と「睡眠学習」が使われているのが、時代を感じるが、心理学畑出身としては興味深い。なにしろこの世界における「幼児教育」では、幼児が絵本や花を手に取ると、床に電流が流れるのだ。これを何度も繰り返しているうちに、子どもたちは「パブロフの犬」のように、本や花と電気の刺激が連結するため、本を手に取らなくなる。ちなみに花が電気ショックの対象なのは、「自然を愛でる」という余暇の使い方は多額の消費に結びつかないから。お金のかかるスポーツや趣味に余暇を使ってもらわないと、企業の儲けにならないのだ。
そう、ここは世界共通政府のもと、企業の論理が最優先の世界。崇拝されているのはイエスでもブッダでもなく、自動車王ヘンリー・フォード(今ならジェフ・ベゾスあたり?)。子供たちはそもそも親から生まれるのではなく、人工授精によって生まれ、施設で洗脳を受けながら育てられる。しかも、胎児の段階で選別され、特定の階級に割り振られる。そして「自分はこの階級に生まれて幸せだ」と思うよう洗脳されているから、国民全員が今の生活に満足し、幸福感を感じている。
古典はすべて不要なものとされ、むしろ文明の外に生きる「野人」のほうがシェイクスピアをそらんじている。宗教も哲学も放棄され、読まれるのはフォードの書いた経営の本、観られるのは葛藤も不安もない「感覚映画」。芸術だっていらないのだ。なぜって、それは安定した平和な社会から生まれないものなのだから。野人ジョンに対し、世界統制官ムスタファ・モンドはこう語る。
「若いころの欲望がいつまでも衰えないのに、なぜそのかわりを求める必要がある? 死ぬまで莫迦騒ぎが楽しめるのに、なぜ娯楽のかわりが要る? 心も体も最後までずっと楽しく活動していられるのに、なぜ安らぎを求める? ソーマがあるというのに、なぜなぐさめが必要なのか? 社会秩序が確立しているのに、なぜよりどころが必要なのか?」(p.324)
子供を産む必要がなく、60歳で死ぬまでずっと健康と若さが保証され、好きな相手とセックスが楽しめ、悩みや心配事はソーマという薬で解消される。さて、これはあなたにとってディストピア、それともユートピア? そもそも今の日本は、アンチエイジングと少子化と不倫と精神安定剤で、まさにこのような世界を目指しているんじゃなかろうか。この日本で「古典不要論」が叫ばれるという現実が、ハクスリーのこの究極のディストピア小説と、不気味に符合しているように思えるのは私だけだろうか。