【1761冊目】桐野夏生『だから荒野』
- 作者: 桐野夏生
- 出版社/メーカー: 毎日新聞社
- 発売日: 2013/10/08
- メディア: 単行本
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既婚の男性で、この小説を読んで背筋が寒くならない人は、よほどよくできたダンナさんか、あるいはとてつもなく無自覚なダメ夫のどっちかだろう。
私は少なくとも、この夫の描写にぞっとした。「社会じゃ通用しないぞ」が口癖で、口先ばかりエラそうなことを言うくせに自分ではなにもできない。無神経で自己中心的で、しかもその自覚はゼロ。生活費として妻には決まった額を渡すだけなのに、自分は高級なゴルフクラブを買い求め、会社の金なのかどうか知らないが夜毎のグルメ三昧だ。
小さなプライドをかたくなに守り、子どものような自己中心っぷりをさらけだし、都合が悪くなると「誰が養ってると思ってるんだ」「社会はそんな甘いところじゃない」と虚勢を張るちっぽけな男。ここまでひどくはないけどね……と自分を慰めつつ、妻の誕生日のディナーで妻にキレられ、車ごと出奔されてしまう不安は、正直なところ拭いきれない。この浩光というダメ夫の中に、一部にせよ自分の「残像」を見てしまう怖さ。一方、世の中の奥様方は、「逃げる妻」朋美に自身を投影してしまうのかな。
本書は、せっかくの誕生日にディナーの店を自分で選び、化粧もドレスも選んだ店も家族にけなされ、そのまま店を出て車に乗って家を出る朋美の冒険譚と、置いていかれた夫のおろおろとした行動が交互に描いている。
ずっと専業主婦で世間知らずだった朋美が一人きりの旅の中でどんどん変わっていくのと、「逃げられ夫」浩光のみっともない姿のコントラストが痛烈で、「浩光側」のワタシとしては、まるで鏡を突きつけられているように居心地悪いことこの上ない。
面白いのは、こまごましたことに不安を感じ、おどおどしていた朋美が、どんどん大胆に、不敵になっていくところ。後半に出会う山岡という老人が、朋美を「猛々しい」と評するが、まさにそういう感じなのだ。人は旅を経て変わる。そして帰還を果しても、それは旅に出る前のその人とはすでに別人なのだ。
そう考えれば、本書はジョーゼフ・キャンベルが英雄伝説の基本構造として論じた「セパレーション(分離・旅立ち)」→「イニシエーション(通過儀礼)」→「リターン(帰還)」という組み立てに、ぴったりと沿っている。いわば本書は、大げさにいえば、専業主婦の英雄譚なのである。
だから本書の結末は、いろいろ賛否あるようだが、やはりこれしかなかったのだと思う。専業主婦だって英雄になっていいのだ。ただ問題は「夫」としてはどうすればよいのか、だが……やっぱり心配しつつ、送りだすしかないんでしょうねえ。せめていつの日か、無事に帰還してくれることを祈って。