自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【1470冊目】浜矩子『浜矩子の「新しい経済学」』

経済学というと難しくてとっつきづらい印象があるが、本書は非常に論理明晰で分かりやすい。著者自身、本書の中でこう書いている。「経済は、解らなくも、つまらなくも、難しくもない。経済は、恐ろしいのである」(p.109)……では、経済学の「恐ろしさ」はどこにあるのか。


そもそも経済とは、人間の営みである。しかし今の経済は、人間を置き去りにして勝手に自走(あるいは暴走)しているとしか思えない。金融や資本が主役を張り、人間は脇役に追いやられてしまっている。著者はそう指摘する。


例えばリーマン・ショック以前の日本で起きた、70か月を超える景気上昇。確かに「経済成長」は目覚ましかった。しかしその恩恵を、いったいどれほどの人が受けられただろうか。むしろ、格差の拡大の中で生活が苦しくなった人のほうが多かったのではないか。ワーキングプアネットカフェ難民も、リーマン・ショック以前から起きていた問題であることを忘れてはならない。


したがって「経済成長」が課題なのではない。経済成長をいかにして個々の人間の生活に結び付けていけるか、ということが課題なのである。にもかかわらず、今もって「成長戦略」ばかりが語られる現象を、著者は「古い革袋症候群」と呼ぶ。成熟経済に至った今の日本には、もっと別の、新しい経済学を入れる「新しい革袋」が必要なのだ、と。


それはすなわち、経済を人間のもとに取り戻す試みでもあるはずだ。弱肉強食が支配するグローバル・ジャングルに「分かち合い」を導入するための仕組みをつくることが、今必要となっている。著者はそれを「グローバル市民主義」と呼び、そこにいるべき人々を「ホモ・グローバノミクス」と呼ぶ。


経済学の黎明期、アダム・スミスは『国富論』を書いた。アダム・スミスといえば「神の見えざる手」ばかりが有名だが、著者によれば、『国富論』は国民国家を基本的対象とする知恵の体系」(p.151)であった。


しかし、ヒトもモノもカネも国境を超えて飛び交うこのご時世に、国富論だけでは到底間に合わない(国民国家中心主義を貫こうとすれば、偏狭な保護主義に行き着くことになる)。そこで出てきたのが著者の造語「僕富論」だ。「僕さえ儲かれば、僕さえ助かれば、僕さえ良ければ……。僕至上主義に凝り固まって、ホモ・エゴノミクスと化した人々が、グローバル・ジャングルのエコロジーを破壊していく」(p.152)。こういう人が経済を回していると、いまだに思われている。今「アベノミクス」バブルを期待する手合いが性懲りもなくまた登場しつつあるが、要するにあの連中だ。


だが、この「僕富論」には限界がある。個々の人々が自分の利益を最大化しようと合理的に行動すれば、そこには「合成の誤謬」が生まれ、全体としては利益がむしろ縮小する。本書の冒頭には、こんな新聞投書の例が引かれている。


「メーカー勤務の夫をもつ専業主婦のAさんは、バーゲンセールを回る徹底した安物ハンティングで家計防衛に奮戦していた。そんなある日、夫が勤め先をリストラされてしまう。よく話を聞いてみれば、夫を解雇した会社は、妻が「安物買い」の常連だったお店の納入業者だったのだ……」


節約に励む妻の行動が、結果として納入業者への締め付けになり、夫がリストラされてしまうという例は、実はレアケースではない。たまたま同じ家庭の中で因果が連鎖してしまっただけで、こうした現象が「薄く広く」起きているのが、現代の社会なのである。


では、こうした「合成の誤謬」を回避するにはどうすればよいのか。そこで著者が提唱するのが「君富論」だ。「国富論」「僕富論」に比べるとちょっと語呂が悪いけれど、著者がここで言いたいのは、「僕=自分だけ」が儲かろうとするのではなく「君=他者」が富を手に入れられるようにするにはどうすればよいのか、というふうに発想を転換させる必要がある、ということだ。


その例として著者が引いているのが、近江商人の「売り手良し、買い手良し、世間良し」の「三方良し」という発想法。こうした発想を推し進めることで最後に到達するのが、富が最適に配分された「皆富論」という理想郷なのだ。


ついでにちょっと敷衍すれば、この「君富論」「皆富論」を推し進めるにあたり、おそらく今後重要になってくるのは、本書には触れられていなかったが、パットナムの「ソーシャル・キャピタル」の発想(特に「互酬性の原理」はまさに「君富論」だ)を経済学と結び付けていく試みであろう。そして本書でも示唆されているように、地域経済のウェイトを高め、コミュニティの社会活動と経済活動を接続していくことも必要だ。


もちろんこれは、言うは易し、行うは難しの理論である。個々の人間のモラルにあまりにも頼り過ぎている。実践に移すための具体策は、本書をみてもあまり見当たらない。だが経済学の立場からひとつの方向性を示した、という意義は、決して過小評価すべきではないと思う。こういうことを正面から主張する人が、今はあまりにも少ない。


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