【1582冊目】水田洋『アダム・スミス』
- 作者: 水田洋
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 1997/05/09
- メディア: 文庫
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『国富論』を読む前の準備体操として読んでみた。著者はスミスの主著『道徳感情論』『国富論』の翻訳にも携わった方らしい。ただし、翻訳のほうは……。
ちなみに私は『国富論』は大河内一男らが訳した中公クラシックスで読んでいる途中。山岡洋一訳のハードカバー版もよさそうなのだが、電車の中で読むにはちと辛い。『道徳感情論』は講談社学術文庫で高哲男氏の新訳が出たのを先日入手したが、かなり読みやすくなっている様子で、こちらも読むのが楽しみだ。
さて、アダム・スミスといえば「見えざる手」が有名だが、本書はその発想の背景をスミスの人生や周囲の思想家からたどっていく。その結果見えてきたのは、スミスが単なる市場原理主義者とは似て非なる発想の持ち主であったことと、それにもかかわらず、各人の私益の追求が結果として公益の実現につながるという考え方を持っていたという、なかなかにややこしい事情であった。
そもそも古代ギリシアやローマの道徳哲学は、人間がこの世における幸福を追求することを前提として成り立っていた。しかしキリスト教に影響を受けた中世ヨーロッパでは、来世の幸福をこの世の幸福に優先させることが教えられるようになった。こうした神学的思想が崩れたのがルネサンスと宗教改革であり、さらにはフランス啓蒙思想やベンサム流の合理主義だった。
スミスは若いころに学んだハチスンという思想家によってこうした考え方を学んだという。もっとも、ハチスンが「めぐみ深い神が、人間のこの世での幸福をねがっている」と考えたのに対し、スミスは「神の観念をハチスンよりはるかに後退させて、「見えない手」にしてしまい、人間のこの世での幸福追求活動(利己心の発動)を前面に押し出した」のだが。このあたりについては、ホッブスや、さらには同じスコットランド出身のヒュームの影響があったらしい。
しかも、フランス啓蒙思想はそこに「賢明な立法者」(啓蒙的専制君主)を想定し、期待したのに対し、スミスは「人間の経済活動がそれ自身で一定の秩序をつくりあげると考えた」。このあたりは、スコットランドという常にイングランドに脅かされていたスミスの出身地の特色が影響しているのかもしれない。いずれにせよ、後にケインズとハイエクが対立するような「経済と国家」をめぐる大論点が、ここにすでに登場している。
ここまでの説明をネオリベの連中が読めば「それみたことか」と言うだろうが、しかし実は、スミスは一方で、私益の追求は無制約で認められるべきではなく、一定のブレーキが経済社会自体にビルトインされていなければならないと考えていた。
そこでブレーキになりうるのが「公平な観察者」としての外部の目、具体的には世論であり、さらにはそれが内在化された結果としての良心である。『道徳感情論』の中でスミスは「利害関係のない第三者が同感してくれる程度に、利己心を自制せよ」と言っているという。
このあたりは近年のソーシャル・キャピタルを思わせるものがあって面白いが、一方で、浜矩子氏が指摘していたように、相手の顔の見えないグローバル経済の中でこの原則が果たして妥当するのかどうか考えると、これはいささか疑問である。そもそも現代のように経済の主体が巨大化したグローバル企業となった場合、このようなモラルは果たして期待できるのであろうか。
なお著者自身、アダム・スミスの思想を現代に適用する際の問題を、3つに整理して提示している。非常に的確な整理と思われるので、ここに挙げておきたい。
1 スミスが資本主義の基本構造と考えているフェア・プレイの自由競争が、彼の目の前に現実に存在したのか?
2 既存の独占と特権を排除しなければ、自然的自由の体制は実現されない。そのためには国家が介入する必要があるのではないか?
3 スミスの時代にはそれほど顕在化していなかった問題、すなわち社会的弱者への対策、資源枯渇への対策、環境破壊への対策をどうするか?
最後に、スミスが分業による生産力の向上を高く評価しつつ、同時にそれが人間に有害な影響を与えると指摘していたことを書いておきたい。分業は人間の視野を狭くし、専門性という名のタコツボに精神を押し込め、平たく言えば「専門バカ」を量産する。スミスは教育によってその弊害を取り除けると思っていたらしいが、さあ、それだけで十分だろうか。
ちなみに、アダム・スミス自身は経済学の創始者というだけでなく、道徳哲学、論理学、修辞学、法学、さらには天文学にも精通した万能型の学者だった。だからこそ、社会経済と道徳倫理をひとまたぎするようなスケールの大きい思索ができたのだ。なんとも皮肉な話であり、いろいろ考えさせられる。