自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【1462冊目】前田勉『江戸の読書会』

江戸の読書会 (平凡社選書)

江戸の読書会 (平凡社選書)

会読」という言葉がある。

「人が集まって読書すること」がその意味であるが、もちろん、単に集まって黙々と読むワケではない。本の内容について、喧々諤々の議論をする。議論を通じて本の理解が深まるところに、会読の醍醐味はある。今でいえば読書会だが、この「会読」が、江戸時代に盛んに行われていたという。議論・討論を前提としたこのような試みが、ガチガチの身分社会、階層社会だった江戸時代に行われていたというのがおもしろい。

どんなふうに会読は行われていたのか。その実例が本書には山ほど載っているが、ひとつを挙げれば、広瀬淡窓の咸宜園での会読がある。ここのやり方は「徹底した実力主義」(p.153)であった。まず入門者は、門をくぐると同時に年齢・学歴・門地をすべて白紙に戻す(三奪法)。しかるのち、最初は全員が無級からスタートし、月1回の「月旦評」なる評価によって1〜9級までの等級を昇っていくのだ。

そのカリキュラムもまた熾烈だった。会読の場は、「奪席会」というぶっそうな名前で呼ばれたという。まず会頭から始まって、成績順に二列になって生徒が座る。席順第二位の生徒が、第一位の生徒に向かってテキストの中の難しい個所を質問する。次に第三位から第一位、次に第四位から第一位……と、つまりは筆頭の生徒に向かって下位の生徒から質問が飛ぶ。答えられないと、質問した生徒が相対の席に移る。一巡すると、今度は第一位の生徒から下位の生徒への質問が飛ぶ。答えが不明瞭な場合、他の生徒が解説でき、その生徒が相対の席に上る。

要するに、答えられれば席次が上がり、答えられなければ追いつかれるというシビアな戦いなのである。上位者と下位者は、出入り口さえ分けられていた。なんといっても面白いのは、これが「先生と生徒」ではなく「生徒同士」の問答であることだ。咸宜園に限らず、多くの場合、会読は一方的な講義ではなく「相互コミュニケーション」「対等性」「結社性」を基本原理とするメソッドであったと著者は述べている。くどいようだが、江戸時代の話である。しかし、ここで気になることがある。かれらは何のために、このようなシビアなことをやっていたのか、ということだ。

そもそも江戸時代は、学問が立身出世にあまり結びつかない時代だった。武家社会という体質、強固な身分制度のため、学問をやっても出世できるわけではない。この点は、科挙によって学問のできる人材を広く登用した中国と大きく違うところだ。

ところがなんと「役に立たない」からこそ、多くの人が純粋に「自分のため」に学問に取り組んだのが、江戸時代の(比較的身分の高い)人々だった。名利や我欲とは無縁のところで、知的好奇心を満たし、自己の能力を試すため、かれらは本を読んだのだ。著者はカイヨワを引用し、こうした学問は一種の「遊び事」であったと見た。

さらにいえば、すぐれた能力や才覚をもちながら市井に埋もれた多くの人々にとって、会読の場は自己の人生を賭けた真剣勝負の場であり、自己の名を残したいという思いをぶつける場であった。国学者蘭学者も、そうした想いは同じだった。かの本居宣長さえ、このように書いているというのだから、なんだかいたたまれないものがある(以下、適宜漢字を補っている)。

「かくのみはかなく、こころなき木草鳥けだもののおなじつらに、なに為としもなく、明かし暮らしつ、いけるかぎりのよをつくして、いたづらに苔の下にてくちはてなむは、いとくちをしく、いふかひなかるべきことと思ふにも、よろづにいたりすくなく、つたなき身にしあれば、何事をしいでてかは、よの人にも数まへられ、なからむ後の世に、くちせぬ名をだにとどめましと……」(p.134)

儒学国学蘭学と、会読はいろんなジャンルで行われた。私塾もあれば藩校もあり、さらには幕府自らも昌平坂学問所で会読を導入した。もちろん会読を行うにはある程度の基礎的な知識や素養が必要であり、庶民相手の寺子屋ではさすがに行われなかったようだが、それにしても実に多彩な「会読文化」が江戸時代には花開いていたのである。

注目すべきは、こうした「自由な議論と実力本位の競争の場」をつくってきた会読が、結果として幕末から明治にかけての改革の土壌となり、さらには近代国家としての日本を支えるベースになっていったことだ。そもそも幕末における改革のエンジンとなった吉田松陰が、この会読の名手だった。有名な野山獄の孟子講義「講孟余話」や、松下村塾における教育にみなぎっていたのは、会読の精神そのものだった。幕府においても、たとえば老中阿部正弘が外国船への対応について広く天下に意見を問うたのも、会読の精神が背景にあったと言ったら牽強付会すぎるだろうか。

明治に入っても会読の試みは続いた。そもそも会読における「自己の偏見・独断を抑制して、他者の「異見」に耳を傾ける」精神は、そのまま近代民主主義精神にほかならなかった。五箇条の御誓文の第一条「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ」もまた、会読の精神の系譜に属するものであった。大げさにいえば、会読こそが明治維新を準備し、日本の近代民主主義の土壌となったのである。

ところがこうした会読の伝統も、明治も半ばをすぎた頃から衰退していった。その理由はいろいろ考えられるが、著者が特に強調するのは「学問が立身出世に直結したこと」(p.373)だというから皮肉である。。これによって学問そのものを楽しむ「遊び」がなくなり、討論によってすぐれた見解や解釈をシェアするのではなく、「自分一人の立身出世を遂げるために、競争相手を出し抜く、密かな読書に励む」(p.374)ことになってしまったのだ。

もっとも、会読の伝統が本当に途切れてしまったのかどうかというと、案外そんなことはなさそうなのだ。むしろ著者自身があとがきで指摘するように、今やビジネスマンの読書会が花盛りである。立身出世への効能は別としても、一冊の本を囲んで丁々発止(になっているかどうかはともかく)の議論が21世紀の今なお行われているというのは、なかなか面白い現象ではなかろうか。

著者はそこに江戸以来の伝統が忘れられていることに苦言を呈されているが、まあ、それは望み過ぎというものだろう。むしろこうした読書界の盛況は、江戸時代同様、学問がすでに立身出世の手段とならなくなってしまった平成の世を象徴している、と読むべきなのかもしれない。

講孟余話 ほか (中公クラシックス)