自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【1303冊目】鈴木大拙『禅とは何か』

新版 禅とは何か (角川ソフィア文庫)

新版 禅とは何か (角川ソフィア文庫)

ふつう、禅をやっている人に「禅とは何か」なんて聞いても、マトモに答えが返ってくるとは思えない。「不立文字」を謳い、そうした普通のコトバによる「解説」を何より嫌うのが禅である。おそらくそんな問いには、謎かけのようなもうひとつの問いをもって返されるのが関の山であろう。

そこを徹底的にコトバを尽くして説明してくれるのが、鈴木大拙なのだ。特に本書は、実際に行われた講演の記録がもとになっているだけあって、非常に懇切丁寧、かつ論理的に書かれている。「禅」をこんなに明瞭に説明してしまってよろしいんでしょうかと、かえってコチラのほうが不安になるくらいだ。

宗教経験、さらには宗教とは何かという話にはじまり、宗教のなかの仏教の位置づけと特色、そして仏教の中における禅の位置づけと特色、という順番に話が進んでいく。まるで学校の授業のような整然とした進行のなかで、特にすばらしいのが仏教全般の解説。なかでも、自身の悟りを得ることを目的とした小乗仏教を「」とし、その理想を「羅漢」とする一方、他者を正覚にみちびくことを目的とした大乗仏教を「」とし、その理想を「菩薩」とするというくだりなど、実に鮮やかでエレガントな説明となっている。

しかも、それでなんとなく分かったつもりになったところで、この慈悲(大慈大悲)は「目的を考えないところの悲でなければならぬ」なんて言い出し、サラリと話の次元を一段高くもっていくのも大拙流。そして、意識しないところの知から、意識しないところの悲が出てくるのであって、そこにあっては自分というものが越えられていく、などと、一挙に宗教や哲学の深奥に入っていくのだ。

また宗教論一般としては「宗教というものは、損ばかりするものである」(p.81)というフレーズが印象に残った。仏教にかぎらずキリスト教も含めて、宗教というのは損をするよう、損をするよう教えていくのだというのである。ではその「損した分」はどうなっているかというと、誰かの得になっている。では皆が損することになったらどうなるか。すると「誰も得をする者がなくなるので、それが本当の理想の社会になってしまう」(同頁)。仏教でいえば、みんなが菩薩になってしまい、仏教自体が必要なくなる。それが仏教の目的成就であり「自覚覚他、覚行窮満」ということなのだよ、と著者は説くのである。

さて、ではこういう宗教の中で禅はどういう位置づけになるのかというと、これは知というものをどう越えていくか、という点に尽きるように思われる。そこで重要になってくるのは「身を持って知る」ということである。単なるアタマでの理解ではなく、経験を経ることが重要なのだ。

したがって「禅は神秘的経験である」と著者は言う。そして、禅は心理的経験に基礎を置かねばならぬ、とも。ここで言う心理的とは、一般的抽象的な論理ではなく、個人個人の信仰・体験に土台をもつということである。そして、個人の内面に土台をもつからこそ、禅の知は強固なものとなる。

これもまた、わかりやすいといえばわかりやすい。しかし、その後で著者はこう言うのだ。人間の心理には、実はわれわれの意識を超えた部分がある。したがって、自分が意識して努力するのも大切であるが、実はその努力をこれ以上できないというところに、実は他力という力が働いてくる。これを禅では「大死一番」というらしいが、これは同時に浄土真宗でいう他力に通じてくる。自力と他力は二元論的に並び立つのではなく、自力の果てに他力があるのである。

同様に、主観と客観、論理学と心理学といったものも、実は別々のようであって実は突き詰めていくとそうではなく、「一方の根源を尽くす」ことが「他方にずっと抜けて出る」ことになるというのである。そこで初めて、両者は実は一なるものであったことが了解される。公案などというものは、要するにこうした「自力の果て」に至るため「普通の意識の働きを動かさぬようにできている」(p.120)ということらしい。

また、禅宗には経典はないものと思っていたが、「楞伽経」(リョウガキョウ、と読む)なるものが、本書では禅の経典として紹介されている。このあたりはインドから中国を経て日本に到来した仏教の流れというものが密接にかかわってくるのだが、特にこの楞伽経ではインド仏教のルーツがかなり色濃く残っているらしく、仏教の変容という点からも興味深い。

禅のみならず宗教、哲学、そして人生に及ぶ、明瞭だが深遠きわまりない一冊。「最高の禅入門書」との紹介も、ダテではない。