リービ英雄『日本語を書く部屋』『千々にくだけて』『Man'yo Luster』(#657〜#659)

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「千々にくだけて」とは、芭蕉の「島々や千々にくだけて夏の海」という句から来ている。主人公のエドワードが、アメリカに向かう飛行機の中でその句を口ずさむ。日本語で、そして英語で…
All those islands!
Broken into thousands of pieces,
The summer sea.
と。
こうした「日本語と英語の交錯」が、この短編集にはたびたび登場する。そして、「千々にくだけて」に、崩壊する世界貿易センタービルの映像が重なり、波が砕ける松島の夏と、一日にして世界を変えてしまった未曾有の惨劇がオーヴァーラップする。著者自身の分身であるらしいエドワードは、自分自身の裡にふたつながらに存在する日本語の思考と英語の思考を通して、言い換えれば自分自身の中にある二重性を通して、その事件を「体験」する。
リービ英雄はアメリカに生まれ、17歳で初めて日本に移り住んでからは、日米を往復しながらアメリカで日本文学の教授を務めた。朝は日本書紀、昼は大江健三郎を講義する生活の中で、万葉集を英訳し、全米図書賞を受賞。なお、その英訳(良し悪しはいまひとつ分からないが)に元の歌と解釈を付し、絶妙な写真であざやかに彩りを添えたのが、今回読んだ『Man'yo Luster』。もちろん抜粋ではあるが、「古今」や「新古今」とはまた違う、日本の原風景の底の底を掘り起こしたような、日本の古層に眠る土の香りがぷんと漂ってくるような味わいのある美しい一冊である。もっとも、それを安易に現在の日本とひとつながりのものとして語ることは、リービ英雄自身が戒めている。
「日本人が自分自身の前近代について語るときには、われわれはそれをとっくに喪失したんだと確認しながら語ってほしい。…(略)…ことに古代のテキストについては、現代そのものがどれだけのものを失ったのかという風にとらえる態度がまず必要だとぼくは思います。」(『日本語を書く部屋』)
では、その断絶はいったいどこで起きたのか。あるいはそれは、目に見えるはっきりとした断絶ではなく、徐々に、緩慢に、われわれ日本人に訪れたものなのか。あるいは今も訪れつつあるのだろうか……というようなことは、日本人であるわれわれ自身が考えなければならないことだと思うのだが、その際に重要となるのが、アメリカで生まれ育ちながら日本語で小説を書く人の、外部から日本語や日本文化を見る視点である。われわれは得てして「日本のことは日本人にしかわからない」という安易な思い込みの中で、実はわれわれ自身が日本のことをよくわからなくなってしまっている、というパラドックスのなかにいることが多いし、そういう時は、あえて外からの視点を得ることによって、かえっていろんなことが分かってくるものである。
40歳を前にしてスタンフォードの教授職を辞したリービ英雄は東京に定住し、「日本語を書く」作家として活動を始めた。日本語の美しさに魅せられたからであり、西洋から日本の文化の内側へと入るための「壁であり、潜戸にもなる」日本語そのものについて小説を書きたかったのだと、彼自身は書いている。それは、言い換えれば「日本語を書く」ことによって、西洋から日本へと、ダイナミックな「越境」を果たしたということである。
しかし、この「越境」は決してたやすくなかったらしい。「日本語をもっている」という表現をめぐる文章からは、特にその困難さを感じた。「ガイジン」であるリービ英雄が日本語を「知っている」こと、日本語を「書ける」「話せる」ことが分かってくると、日本人として生まれた人たち(つまりわれわれ)からは「絶対に分けてくれないコトバの『所有権』が問題にされだした」「人種を共有しない者にとって、日本語にはあくまでも『借地権』という条件が付いていた」というのだから。
こうした現象が日本独自のものなのかどうか、私はよく知らない。だが、こうしたケチな囲い込み根性で日本語を囲っていることが、当の日本語の衰退を招いたという一面はあるように思われる。万葉集を知らない、古事記を知らない日本人が、ただ日本人として生まれたという一事をもって日本語の所有者面をしているうちに。だが、むしろこれからは、リービ英雄や、芥川賞の候補になったイラン人作家のシリン・ネザマフィさんのように(なお、リービ英雄自身も候補に挙がったことがある)、日本の外側からの「越境」を果たした者の外部の視点を得ることによって、日本語の、そして日本語で書かれた小説の豊穣と再生を図っていくことが必要なのかもしれない。
「日本語で書くということは、たとえ日本人として生まれた書き手であっても、どこかで外国人のように書かなければならない」(『日本語を書く部屋』)