自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【526冊目】山本周五郎「深川安楽亭」

深川安楽亭 (新潮文庫)

深川安楽亭 (新潮文庫)

表題作「深川安楽亭」とは、別に某焼肉チェーンとは関係なく、「抜け荷」(密貿易)に携わるグループの拠点となっている店であり、暗く不気味な犯罪者たちの巣窟である。しかし、父親に売り飛ばされた恋人を身請けしようと盗みに手を染めた若者を、彼らは命がけで助けようとする。そして、その中で一人酒を飲み、嗚咽を漏らす謎の客。善悪ではなく人情と義で動く人々の純粋な魂を描いた短編である。

他にも11の短編が収められているが、シリアスなものから滑稽味あふれるもの、ミステリー風のものから人情噺まで、きわめてバラエティに富んだ取り合わせで、山本周五郎という作家の幅と深みを味わうにはもってこいの一冊である。実は、ずいぶん前にも山本周五郎は長編を中心に読んでいたが、その時より今回のほうが心に届くものが多かったような気がする。私自身はまだまだ若輩者だが、人生の年輪を重ねれば重ねるほど、この作家の小説は読み手の心の深いところに届いてくるのかもしれない。

特に、一見無能とみえる人を軸に据えて、その真価を描き出す作品に印象的なものが多かった。愚直で要領の悪い「あご」こと小弥太の壮絶な死にざまを描いた「水の下の石」、一足ちがいどころか百足ちがいといわれるほど「間に合わない」若者が気がつけば一番出世を遂げ、彼を馬鹿にして出世や名利を急ぐ仲間はみな落ちぶれていたという「百足ちがい」など、考えさせられるものがあった。「深川安楽亭」にしても、アウトローの犯罪者集団が純粋なほどひたむきに人のために尽くそうとする物語である。世間の辛さ、人生の苦しさを嘗めつくした極みに、ふと人間の温かみや深みのようなものが、暖かい陽光のように差し込む。その一瞬のきらめきを捉えて描き出す、人間への肯定に満ちた短編集。