自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【2327冊目】柚月裕子『パレートの誤算』

 

パレートの誤算 (祥伝社文庫)

パレートの誤算 (祥伝社文庫)

 

 

小説としてはまあまあ面白い。あやしいヤツの先読みはできてしまうが、伏せられていたピースを徐々に開けていく手際は鮮やかで、うまくラストまで持っていかれる。まあ、小説としての評価だけなら、amazonでいくらでも読むことができるだろう。

ここでは福祉職場の観点から、いくつかツッコミを入れてみたい。粗探し、と言われるかもしれないが、生活保護という福祉の最前線の現場を舞台として取り上げるのなら、最低限の取材や情報収集でファクトの部分は固めてほしい。特に生活保護は、ただでさえ誤解や偏見にさらされやすいのだから、もうちょっと丁寧に扱ってほしかった、というのが正直なところ。なお、上のリンクは文庫本だが、読んだのは単行本なので、直っているところもあるかもしれないがご容赦を。

もうひとつ。以下の記述はネタバレを含みます。ご注意を。

 

 

 


1 週刊誌の生活保護不正受給の記事あたりをとっかかりに書き始めたのかもしれないが、そもそも不正受給率は全体のごくわずか平成27年度は金額ベースで全体の0.45%、対象世帯で見ても2.7%。しかもその8割近くは収入申告の漏れ・過少申告)。不正受給を取り上げるなとは言わないが、生活保護全体から見ればレアケースであることをどこかで触れておかないと、不正受給が当たり前に横行しているような誤解を受ける。

 

2 主人公の聡美は「臨時職員」となっているが、臨時職員は育児休業など、あくまで正規職員の欠員を補うもので単純事務が多い。専門職の臨時職員もいないわけではないが、仕事の内容や、社会福祉士児童福祉司の有資格者であるところを見ると「非常勤職員」である可能性が高いように思われる(採用試験を受けているようなので、一般職非常勤職員である可能性が高い)。臨時職員採用で試験を行っているというのはあまり聞いたことがない。また、非常勤職員も臨時職員も、通常は職場単位の採用であり、一括採用されてから振り分けられる(同頁)ことはあまりないのではないか。

 

3 福祉事務所の生活保護ケースワーカーが、児童福祉司はともかく社会福祉士の「持っている資格など関係ない」部署であるわけがない。むしろ福祉職の典型的な配属先であろう。あと、社会福祉士資格所持者が「生活保護受給者に嫌悪を抱いている」のも、絶対ないとは言わないが福祉専門職としてはあるまじき態度ではないか。

 

4 単純ミスかもしれないが「生活扶助」を「生活補助」、「医療扶助」を「医療補助」としている箇所があった。直っているところもあったが。校正が甘い。「失業保険」も「雇用保険」だ。

 

5 見舞金をなくしたと主張するケースに、聡美がポケットマネーで1万円を払うシーンがある。一見善意の行動に見えるが、公金とプライベートなお金をごっちゃにするのは、公務員としてもっともやってはいけないことだ。

 

6 生保受給者の情報を刑事がケースワーカーに聞き取るシーンがあるが、個人情報保護の観点から、ケース記録をそのまま渡して読ませることは考えにくい。法に基づく捜査事項照会書を出してもらい、決裁を取って書面で回答すべきものであろう。

 

7 課長が生保受給に便宜を図っていたくだりがあるが、現場ベースでほとんどの決定が行われる生活保護申請・決定業務で、管理職がここまで個別ケースに関与するのは難しいように思われる。ましてや、受診歴の調査のような細かい点で課長にお伺いを立てるものだろうか。

 

8 「たとえ規則を破ってでも、本当に相手のためになることをする。そんな熱い使命感を持つ者が、優れた職業人だ」というフレーズがある。本書の「決めゼリフ」といってもいい位置付けになっているが、これは違うのではないか。自分の価値判断ひとつで規則を破る者は、一歩間違えば独善に陥る可能性がある。規則を破るのではなく、規則と自分の信念の矛盾に悩みつつ、最後までその矛盾に向き合い続けられる人こそ、本当の優れた職業人なのではないか。

 

著者は今を時めく人気作家の一人である。だからこそ、書く内容にはもっと責任を持ってほしかったし、安易なヒロイズムに陥らず矛盾としっかり向き合ってほしかった。少なくとも『健康で文化的な最低限度の生活』レベルのファクトチェックは欲しかったが、これはないものねだりというものか。

 

 

 

 

 

 

【2326冊目】松井孝典『文明は〈見えない世界〉がつくる』

 

 

見えている世界だけが世界ではない。むしろ大事なのは、その背後にあって見える世界をかたちづくっている「見えない世界」のほうである。科学とは、こうした「見えない世界」を解き明かし、それによって文明を作り上げていくものなのだ。

タイトルは一見意味不明だが、要するにこうしたコンセプトで書かれた一冊。もっとも、内容はほとんどが科学史の総ざらいである。古代メソポタミアの「暦」から現代のマルチバース(多宇宙)モデルまで、「見えない世界」を追い求めてきた科学の歴史を超高速で紹介する。

「見える世界」だけで世界が説明できないことを示す有効な手段は、パラドックスだ。たとえば紀元前5世紀のギリシアの哲学者であるエレアのゼノンは「ゼノンの4つのパラドックス」によってこのことを明示した。有名なのは「アキレスのパラドックス」だろうか。「どんなに速いランナーでも、相手が少しでも前方からスタートする場合、それがどんなに遅かろうと追いつくことはできない。なぜなら、速い方が相手の出発点に着いた時には、相手はわずかだがそこより前に進んでおり、その場所に追いついても、やはり相手はそこから少しだけ進んでいるから」というやつだ。

これでゼノンが言いたかったのは「運動とは見る者の錯覚にすぎない」ということであるという。「見かけ」にとらわれず、運動とは何か、時間や空間とは何かを本質的に捉えなければ、このパラドックスを解くことはできない。それは「見える世界」と「見えない世界」の矛盾を突くものなのだ。

「見えない世界」が、リアルな意味で「見える世界」を変えた代表例として挙げられるのは、磁石である。磁力という「目に見えないもの」を可視化した磁石の存在は、羅針盤の発明につながり、これが大航海時代を可能にした。ちなみに最近はスマホにも搭載されているGPSは、羅針盤ではなく一般相対性理論(これこそ究極の「見えない世界」の理論だろう)がなければ成り立たない。

そもそも私たち人間が「見えない世界」を研究し、その成果を「見える世界」にフィードバックできるのは、「外界を脳の中に投影して内部モデルを作るという能力」のおかげである(p.187)。しかし現代では、ここに大きな問題が生じている。「見えない世界」の拡張に「見える世界」が追いつかなくなっているというのである。

特にヤバいのは、われわれの文明を支えている地球というシステムの許容量を、「見えない世界」からもたらされるものが超えてしまっていることだろう。本書はバックミンスター・フラーの思想を取り上げつつ、もう一度「見えない世界」と「見える世界」のバランスを整理しなおすべきではないかと言う。それこそが、人類が「文明のパラドックス」を超克する唯一の方法なのである。

【2325冊目】結城康博・嘉山隆司編著『高齢者は暮らしていけない』

 

高齢者は暮らしていけない――現場からの報告

高齢者は暮らしていけない――現場からの報告

 

 

ケアマネや特養の施設長、自治体のケースワーカーなど現場の人が分担執筆しているだけあって、金銭面を中心に、高齢者福祉制度の「足りないところ」「おかしなところ」「現場とのギャップが生じているところ」が集中的に理解できる一冊だ。ただし本書は刊行が2010年であり、現状を知るにはいささか古く、サ高住や軽費老人ホーム、生活困窮者自立支援などについては触れられていないので、鵜呑みにするのは危険。むしろ「制度と現場のズレ」に関する基本的な着眼点や考え方を知るための本だと思った方がいい。

印象的だったのは、無年金、低年金などの貧困ケースに加えて「お金はそこそこあるけどサービスの利用に結びつかない」ケースがけっこうあるということ。お金がかかってもったいないとサービス利用を拒否していたのに、死亡後に数百万の現金や数千万の貯蓄の入った通帳が見つかることもあったという。これを単に「無知」と片付けるのは簡単だろうが、むしろ「財産を福祉に換金する行為」を支援する必要があったと見るべきなのではないか。

第10章では現状の福祉制度(といっても2010年当時のもの)に対する提言がなされているが、これも今の制度を知ったうえで読むと面白い。興味深いのは「高齢低所得者医療・介護負担免除制度」の提案。これは高齢低所得者の医療や介護にかかる自己負担額や保険料を免除することで、結果的に生活保護受給に至らずに済む高齢者を増やすというもの。「生活保護のお世話にはなりたくない」と困窮した生活を送る高齢者を救済することにつながる。濫用や悪用が起こらないよううまく運用をコントロールする必要はあるにせよ、一考に値する提案ではないだろうか。

【2324冊目】青山文平『つまをめとらば』

 

つまをめとらば (文春文庫)

つまをめとらば (文春文庫)

 

 

「女は、皆、特別だ」

これは本書の最後に収められた短編「つまをめとらば」の、それもラスト近くに登場するセリフ。全体を通して読み、最後にこのセリフに出会うと、なんだか深く納得してしまうものがある。

「ひともうらやむ」「つゆかせぎ」「乳付」「ひと夏」「逢対」「つまをめとらば」の6篇を収めた、著者の直木賞受賞作だ。共通点は、濃淡の差はあるが、女性の存在が取り上げられていること。時代小説で「女性」がフィーチャーされることは、なくはないが、頻度は決して多くない。描かれていても、現代小説に比べるとどうしても男性の陰に隠れたステレオタイプなキャラクターになりがちで(特に男性作家の場合は顕著で、無意識のマッチョイズムを時代小説の方が出しやすいのでは、と勘繰ってしまうほど)、そういう意味で本書はユニークだ。もちろん当時の時代背景を考えればどうしても制約はでてくるだろうが、本書はむしろその制約を逆手に取っている感じさえする。

それはそれとして、著者の作品を読むのは実は初めてだったのだが、なかなかの手ごたえを感じた。描写は流れるようでありながら肝心の部分は丁寧に描かれ、会話も時代小説としてはきわめて自然。練達の士、というべきか。遅咲きの直木賞であったらしいが(現在70歳)、健康に留意いただき、今後も良い作品を生み出してほしい。

 

【2323冊目】『ティク・ナット・ハンの般若心経』

 

ティク・ナット・ハンの般若心経

ティク・ナット・ハンの般若心経

 

 

法華経に興味、と言っておいていきなり般若心経というのもアレだが、これはたまたま以前読んだ時に書いた読書ノートのストックがあったから。でも、般若心経もまた、とても気になる、そしてたいへん大事なお経である。

多くの日本人にとって般若心経というと「葬式で坊さんが唱えているお経」くらいのイメージしかないのではないか。だが、これは本当にスゴイお経なのだ。仏教のエッセンスはほぼすべて、この短いテクストの中に含まれていると言っても過言ではない。

まあ、そうはいっても、いきなり「空」とか「色」とか言われても、なかなかとっつきづらいのは事実。特に「空」を「無」と捉えてしまうと、このお経はチンプンカンプンになってしまう。そこで本書の著者ティク・ナット・ハンは「空」を「無」ではなく「独立した実体ではない」と言い換える。

だから例えば「体とは空である」とは「体は存在しない」ということではなく「体は他のものと独立して存在しない」ということになる。どういうことだろうか。少し長くなるが、ティク・ナット・ハンの言葉を引いてみよう。

「あなた自身の体を深く観ていけば、その中にはあなたの両親と祖父母、すべての祖先、そして地球の生命の歴史がすべて入っているのがわかるでしょう。この体は、ふだんあなたが体とは思っていないような、体以外のすべてのものから作られた複合体です。そこには太陽と月と星、時間と空間も見てとれるでしょう。事実、この体を作り上げるために、宇宙全体がここに集まっているのです」(p.56-57)

 

 

こうしてみていくと、あの「輪廻」「前世」という思想も、従来のものとはまったく違う意味合いを帯びてくる。ティク・ナット・ハンは、これは「科学」であると断言する。

「私が飲む水は、かつて雲でした。私が口にする食べ物は、かつて太陽の光であり、雨であり、大地でした。まさに今この瞬間に、私は雲であり、川であり、空気なのですから、前世でも、雲や川や空気だったとわかるのです。そして私は石であり、水に含まれる鉱物成分でもありました。私は前世を信じるかどうかを問題にしているのではありません。それが地球の生命の歴史なのです」(p.71)

そうなのだ。ある宇宙物理学者が「人間は星のかけらでできている」と言ったのを思い出すが、まさにわれわれは、食べ物や飲み物を通して、いわば世界の構成物の一部を受け取っているのだ。それに、そもそものおおもととなった遺伝子は両親から受け継いでいる。「私」とは、かかる無数の要素が行き交う交差点上に、たまたま存在するだけのものなのだ。そして、これが仏教だとすれば、仏教とは宗教ではなく、思想であり、科学であったということになる。

もっとも、こうした「理屈」は分かっても、なかなかそのことを自分自身で感じ、呑み込み、会得することは難しい。ティク・ナット・ハン自身も、こうした考え方(「縁起」「インタービーイング」)は「スコップのようなもの」だという。「井戸を掘るにはスコップを使いますが、掘り終ったら、そのスコップは片付けねばなりません」(p.165)。知識としてこうした考え方を知るだけではなく、その中で「生きる」ことが必要なのだ。「真理は知識や概念の蓄積の中にではなく、ただ生きることの中にだけ存在しうることを、心にとめておきましょう」(同頁)

ちなみに、そうした生き方とはどのようなものかが示されているのが、後半の「ある刑務所での法話」である。これはティク・ナット・ハンがメリーランド刑務所で行った法話なのだが、「今を生きる」マインドフルネスに満ちた生き方とはどのようなものかがよくわかる。「エンゲージド・ブッディズム」(行動する仏教)を提唱する著者ならではの、人の生き方を大きく変える力を持った一冊だ。