自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【2293冊目】テッド・チャン『あなたの人生の物語』

 

あなたの人生の物語 (ハヤカワ文庫SF)

あなたの人生の物語 (ハヤカワ文庫SF)

 

 

「バビロンの塔」「理解」「ゼロで割る」「あなたの人生の物語」「七十二文字」「人類科学の進化」「地獄とは神の不在なり」「顔の美醜について」の8篇を収めた一冊。これだけでデビューから本書刊行時までの全作品になるというから驚きだ。

中でも秀逸なのは、映画『メッセージ』の原作でもある「あなたの人生の物語」だろう。挿入される我が子との思い出が、一見関係なさそうに見えて、異星人との交流のありようと共鳴する。鍵となるのは、逐語的ではなくすべてを同時に表現するという文字であって思考様式。語られたこと、文字は伝達のためではなく、現実化のために用いられる。未来は異星人ヘプタポッドにとっては既知であり、しかしそのためには言語が示されなければならない。

もはや哲学的思考実験としか言いようのない発想だが、これを一篇の小説に仕立て上げ、そこに主人公である言語学者にとっての救いさえ織り込んで見せる著者の腕前はものすごい。我々人間の思考の限界を超えた発想を用いているにも関わらず、そこにはまったく破綻がない(ように、私には思えた)。思考の限界を超えた思考という点では「理解」も同じようなものだが、こちらは単純な思考パワーゲームにすぎない。

発想のユニークさと極端さ、スケールの大きさで私が連想したのは、意外かもしれないが、星新一。だが、星新一がそのアイディアそのものをショートショートであっさり使い切ってしまう(そこが星新一の天才的なところなのだが)のに対して、テッド・チャンはそこからじっくりと旨味を引き出し、一品の料理として提示してみせる。実際、「バビロンの塔」も似たようなショートショートがあるし、「理解」「顔の美醜について」あたりも、いかにも星新一っぽいウィットとひねりが効いている。

ともかくこの著者、例えばディックやイーガンのようにぶっ飛んだ発想や設定そのもので読者を驚かせるのではなく、それを筋書きの中に織り込んで読ませるところが巧妙だ。発想と技巧の絶妙なバランスから生まれるリーダビリティの高さは素晴らしい。ぜひ今後も読み続けたい作家である・・・新作が出れば、の話だが。

【本以外】映画『ボヘミアン・ラプソディ』を観てきました

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最近、月1回の映画レビューが続いている。12月の映画は『ボヘミアン・ラプソディ』。

 

いやあ、素晴らしかった。映画の出来がどうこうというより、クイーンの音楽が、完全に映画をジャックしていた。映画でこれほど音楽の力を感じたのは、ジャンルは違うがモーツァルトを描いた『アマデウス』以来かもしれない(実録系も入れていいなら「THIS IS IT」も)。

 

特に圧巻はラスト21分のライヴ・エイド。演奏される曲の歌詞が、それまでのフレディの人生と重なり合って、なんだか涙が出てきてしまった。いやあ、改めて思ったけど、本当にクイーンって、いい曲が多い。ちなみに音楽漬けになるためにも、この映画は映画館で観るべき。それだけの価値はある。

 

好きなシーン。エイズの宣告を受け、病院を出ようとするフレディ。廊下で診察を待っている青年(おそらく彼自身もエイズ)が、目の前を通り過ぎる男がフレディだと気付き、「Ay-Oh」とつぶやく。足を止めたフレディが「Ay-Oh」と短く返し、そのまま病院を出る。それだけ。

 

 

【2292冊目】スティーブ・シルバーマン『自閉症の世界』

 

自閉症の世界 多様性に満ちた内面の真実 (ブルーバックス)

自閉症の世界 多様性に満ちた内面の真実 (ブルーバックス)

 

 

自閉症をめぐる歴史を辿り、その現在をあきらかにする一冊。600ページ以上という、ブルーバックスとしては異例の厚さだが、ブルーバックスには珍しく「文系」にもやさしいリーダビリティの高さも異例。自分の関心のある領域ということもあり、一気に読み切った。

まず意外だったのは、「カナー型自閉症」で知られるカナーと、「アスペルガー症候群」で有名なアスペルガーがほぼ同時代の人物だったこと。カナーに比べてアスペルガーが知られるまでに時間がかかったのは、アスペルガー第二次世界大戦下のオーストリアの学者であり、つまりは「敗戦国側」だったためだった。

ナチス支配下にあった当時のオーストリアアスペルガーがとった態度は、称賛に値する。師匠だったハンブルガーがナチスを支持し、「不完全な」人間を排除しようとしていた中で、アスペルガーはこんな文章を書いていたのだ。

自閉症の実例はアブノーマルとされる人でさえ、どれほど発達と順応の能力があるかを如実に示してくれる。(略)このような知見は、自閉症や他のタイプの問題を抱えた人たちに対する私たちの態度に、多大な影響をあたえるものである。さらに私たちには自らの存在をかけて、こうした子どもたちを擁護する権利と義務があることを教えてくれるのである」(p.118)

対照的ともいえる態度を取ったのが、アメリカで自閉症研究の第一人者となったカナーである。カナーは子どもが自閉症になる原因を、親の冷たい養育態度にあるとみなしたのだ。後に多くの親(特に母親)が、「冷蔵庫マザー」と呼ばれ、子どもを自閉症にした悪魔のような母親だと責められることになるが、その原因のひとつとなる仮説を流布したのがカナーだったのである。今では親の養育態度と自閉症の因果関係ははっきり否定されているが、それにはリムランドの登場を待たなければならなかった。

自らも自閉症の子をもつリムランド夫妻は、自分たちが愛情不足であるわけがないという確信のもと、ついに自閉症が幼児期のトラウマによって引き起こされる精神疾患の一種ではなく、先天的な「知覚能力不全」」(p.325)であるという結論にたどりついたのだ。これによっていかに多くの親が救われたことだろう。だが、自閉症の子どもたちにとっての受難は、まだ終わらなかった。行動を改善するためにスキナー式の行動療法の対象とされたのだ。それは、望ましい行動には報酬を、不適切な行動には「罰」を与えるというものだった。そして「罰」として用いられた手段の中には、電気ショックも含まれていたのである。

さらに、自閉症の子どもをもつ親は、世間の無理解にもさらされなければならない。その状況は今もあまり変わっていないが、それでも、ある映画の存在が「自閉症」をメジャーなものにした。ご存知『レインマン』である。本書は『レインマン』の成功に向けてどれほど多くの人々が尽力したか、その効果がどれほどのものだったかについて詳細にレポートする。映画というもののもつインパクトの大きさ、影響力の大きさをあらためて認識させられる。

自閉症についての考え方は、その後も紆余曲折をきわめている。中には「ワクチンの副反応説」というのもあって、これが自閉症の当事者や親たちの活動を大きく捻じ曲げ、損なったことも、本書は紹介している(ワクチン懐疑論というのは本当に厄介なものである)。まあ、いずれにせよ、大きな流れは、自閉症を「矯正」しようとするのではなく、そのあり方を認め、共存していく方向にはっきりと向かっているのである。

本書はここで「脳多様性」(ニューロダイバーシティ)という考え方を提示する。ジュディー・シンガーという、自らもアスペルガー症候群である大学院生が命名したらしいが、この発想は素晴らしい。自閉症は、あくまで脳の多様なパターンの中の一つに過ぎないと、この言葉は教えてくれる。いわゆる「健常者の脳」もまた、別のパターンにすぎないのだ。問題は「どっちが正常か」ではなく「どっちがマジョリティか」なのである。自閉症に限らず、障害を考えるにあたっても、この発想は重要だ。人は多様な脳と多様な身体をもっているのであって、たまたま少数派の脳や身体を持っているからと言って、差別や偏見を受けるいわれはないはずなのだ。

 

 

 

 

 

 

【2291冊目】ジャンナ・レヴィン『重力波は歌う』

 

重力波は歌う――アインシュタイン最後の宿題に挑んだ科学者たち (ハヤカワ文庫 NF)

重力波は歌う――アインシュタイン最後の宿題に挑んだ科学者たち (ハヤカワ文庫 NF)

 

 

本書の刊行は2016年(文庫版は2017年9月)。本書の「テーマ」である重力波の観測によって、ライナー・ワイス、キップ・ソーン、バリー・バリッシュの3人がノーベル物理学賞を受賞したのが2017年12月。あまりにタイミングが良すぎるが、それも当然か。重力波こそ、かのアインシュタインがその存在を予言しながらも観測されることのなかった「最後の宿題」なのだから。

ブラックホールは、光さえ呑み込む真っ黒の穴。したがって、その存在を目で見ることはできない。だが、もし2つのブラックホールが宇宙空間で衝突したら? そこで生じるとされているのが、重力波という「音」。ブラックホールは、見えることはなくても「聞こえる」可能性はあるのである。

ブラックホールの衝突で生まれるエネルギーは「太陽10億個分の1兆倍以上」というとてつもないものだ。だが、10数億光年離れた地球に到達する頃には、それが「地球3個分ほどの幅が原子核1個分伸縮する」あるいは「地球1000億周分の距離を髪の毛1本分未満だけ縮める」程度のわずかなものになるという。本書は、そんな信じられないほど小さな変化を捉えようとした科学者たちの執念の日々を追ったドラマである。

立役者は、ノーベル賞を受賞した3人だけではない。重力波観測の先駆者でありながら施設を自腹で運営せざるを得なかったジョセフ・ウェーバー。すぐれた科学者だが際立った変人で、最後はプロジェクトから去ることになったロン・ドレーヴァー。ドレーヴァーを「追い出し」たが、自らも結局残ることはできなかった横暴なロビー・ウォード。LIGOという、想像を絶する規模の大きさと費用の施設を作り上げるためのプロセスは、決して生易しいものではなかった。とはいえ、それでもプロジェクトは巨額の予算を確保し、LIGOを生み出し、ついには重力波が歌うかすかなブルースを聴くことに成功したのだ(本書の原題はBlack Hole Blues)。

しかし、著者はなぜこんなドラマ仕立てのノンフィクションを書いたのか。重力波が何か、LIGOとはどういう施設かを知るだけなら、それなりの本もウェブサイトもある。だが、科学の進歩はたくさんの科学者たちの、挑戦と、懊悩と、戦いと、諦めと、そして歓喜がなければ成り立たない。科学とは科学者という人間による営みの積み重ねなのだ。自らも科学者である著者は、こんなふうに書く。

「科学者は、ボルダリング競技で言えば、手掛かり・足掛かりとしていいところにねじ込まれている取っ手やノブ、丸石のようなものだ。科学はこの壁に似て、知識を混ぜ込んでコンクリートで固めたようなものであり、まるっきりの人工物だが、現実に即していて、私たちの頭のフィルターを通してのみアクセスできる。自然科学や数学では客観性の追求が重要だが、この壁は各人を通じてしか登ることはできず、各人には―フランスの男にも、ドイツの男にも、アメリカの女にも―個性がある。ということで、この壁登りは個人的な営み、なんとも人間くさい企てであり、実際の探究活動をどんどん拡大して見えてくるのは個人であって、プラトンが説く原型(イデア)ではない。結局のところ、客観的であれという私たちの理想がいかに高くとも、それに負けないほど個人的な営みなのである」(p.269)

まあ、あまりうまい言い方ではないが、言いたいことは伝わるだろう。むしろ某缶コーヒーのCMになぞらえてもっと簡単に言えば、こういうことなのだ。

「科学は誰かの仕事でできている」

 

【2290冊目】フィリップ・K・ディック『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』

 

アンドロイドは電気羊の夢を見るか? (ハヤカワ文庫 SF (229))

アンドロイドは電気羊の夢を見るか? (ハヤカワ文庫 SF (229))

 

 

映画『ブレードランナー』のイメージが強烈すぎて、なかなか原作を手に取る気になれなかった一冊。例の「ハヤカワ文庫の100冊」に入っていたので、この機会に読んでみた。

映画の印象に引っ張られるかと思っていたが、結果としては、ほとんど映画のことは思い出さなかった。それほどにこれは「別物」だ。あ、違った。小説のほうが先なのだから、リドリー・スコットが「別物」の映画を作ったということか。だいたい「レプリカント」じゃなくて小説は「アンドロイド」なのだ。レプリカントとアンドロイドじゃ、与えるイメージが全然違う。

放射能灰に汚染された近未来の地球が舞台。第三次世界大戦後の荒廃した世界という設定がもはや古典的だが、生物がほとんど絶滅していて厳重に管理保護されていたり、感情をコントロールできる機械があったりと、映画とは違う独特のディストピア感がおもしろい。動物を飼うことが人間らしい感情の証明のようになっているが、生きた動物を買えない主人公リックは機械仕掛けの電気羊しか持っていない。

火星からやってくるアンドロイド8名と、それを狩るリック。だが単なるアクションドラマではなく、アンドロイドとは何か、という根本的な問いが通奏低音のように横たわっている。それはつまり、人間とは何か、という問いでもある。

面白いのはその見分け方。フォークト・カンプフ検査法というこの方法では、人間であれば感情を刺激されるような質問をして(例えば「ライスを包んだ犬の皮」とか)反応を見るというものなのだが、こんな見分け方でもしなければ人間とアンドロイドの見分けがつかないこと自体が実は問題であって、それならそもそも両者を「見分ける」必要があるのか、という疑問も湧いてくる。人間とアンドロイドの違いをめぐる議論は、人工知能ブームの今こそ必要だ。