自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【2289冊目】石井光太『漂流児童』

 

漂流児童

漂流児童

 

 

内容的には、児童虐待を扱った『「鬼畜」の家』に続く一冊ということになるのだろうか。社会の「レールから外れた」子どもたちを受け止めている施設の現状を取り上げた一冊だ。

児童養護施設や母子生活支援施設(昔の「母子寮」)から少年院や少年刑務所、さらには小児ホスピス赤ちゃんポストまで、公設・民設を問わず幅広い施設が取り上げられているのが面白い。掘り下げ方もそれぞれに形を変えつつ、あくまで具体的な「当事者の話」や「実際の事例」をメインにしているので、施設の現状や課題、さらにはそこにいる子どもたちの壮絶な家庭環境までが鮮明に伝わってくる。

事例として興味を惹かれたのは、自分が障害福祉の仕事をしているからということもあるだろうが、障害児入所施設を核にひとつの「街」を作ってしまった「シェア金沢」。サービス付き高齢者住宅から学生向け賃貸住宅、カフェやマッサージ店まであるというその「街」は、結果的に「地域での見守り」を実現することで、障害のある子どもたちが施設に閉じこめられることなく生活することを可能にした。とはいえ、そこに入所する障害児たちの中には、精神疾患があったり激しい攻撃性があったりする子どももいるという。彼らを地域の中で「共生」させるのは、なまやさしいことではないはずだ。

児童福祉施設「双葉保育園」の武藤園長が提示する「戦後の子供史」も興味深い。それによれば、戦後から1960年代までは「戦災孤児の時代」だった。それが70年代から80年代までは「校内暴力の時代」、90年代は「いじめの時代」、2000年代は「虐待の時代」というように推移してきたという。

もちろん、現代でもいじめがまったくなくなったわけではない。むしろ、いじめ問題の解決のため専門家が入ったことで、いじめの背後にあった虐待問題に光が当たったというべきなのだ。幼少期からの虐待で人格の歪み、自己肯定感の低さ、精神疾患等が生じ、それがいじめを含む問題行動につながっていたことがわかったのである。こうなってくると、昔ながらの「子どもを信頼する」「全力でぶつかる」のような指導法は役に立たない。むしろ病理の側面で子どもの内面を捉えなおし、医学的治療や認知行動療法のような取り組みを加えることが必要になってくるのだ。

また、「虐待の時代」の子どもたちの特徴は、攻撃性が自分に向かうことである、という指摘も気になるところだ。校内暴力やいじめのように外部を攻撃するのではなく、というか、そうした攻撃性を抑圧された結果、彼らはリストカットのような自傷行為に走る。そうした子どもたちにどのように接し、どのように社会に送り出していくか。本書が扱っているのはそのような、現場の職員一人一人の試行錯誤と奮闘の過程であり、児童福祉の最前線の取り組みなのである。

【2288冊目】鈴木宏幸・渋川智明『認知症対策の新常識』

 

認知症対策の新常識

認知症対策の新常識

 

 

福祉関係者以外の方にはマニアックな本で申し訳ありません。でも、認知症というテーマは今後、誰にとっても他人事ではなくなるはず。だからこそ、基本的な点だけでも知っておきたいところである。

本書は認知症の基礎知識から予防法、なってしまった場合の周囲の対応策などをコンパクトにまとめた一冊だ。意外だったのは、先進国では認知症の有病率が低下しているという指摘(ちなみに高齢者の総数は増えているので、認知症の患者数自体は増えている)。その理由の一つは、若年期における教育の充実であるという。

なぜ教育が大事なのか。本書によれば、文字の読み書きができることで得られる新聞、雑誌、書籍などからの文字情報や、自分から手紙を送ったり書類に記入したりすることが、認知機能を刺激するからだという。また、都市社会では複雑な交通機関の利用や情報刺激の多さが認知的な負荷を与え、これが認知症予防につながっている可能性もある。

認知症患者は敗者ではない」という指摘も大切だ。認知症予防はあくまで認知症になる確率を減らすことができるだけであって、確実に防げるわけではない。これはどんな病気にも、あるいは人生上のトラブルにもあてはまることだが、どんな予防策も、せいぜい病気にかかったりやトラブルに遭う確率を下げることができるだけなのだ。ましてや自己責任論なんて、全く何の意味もない。

前段の話が長くなってしまったが、実は本書の眼目は、その予防法の一つとして「絵本の読み聞かせ」を挙げていること。ちょっとまぎらわしいのだが、これは高齢者が読み聞かせを「してもらう」のではなく、子どもたちに読み聞かせを「してあげる」という行動が良いらしいのだ。それも一人でやるのではない。何人かで本を選ぶところから始め、練習して、実際に読み聞かせ、その結果をみんなで振り返るのである。

活動としてそれをやっているのが、著者の鈴木氏も所属する東京都健康長寿医療センター研究所の世代間プログラム「りぷりんと」だ。面白いのは、これがただの読み聞かせによる認知機能の刺激だけではなく、仲間づくり、子どもとの交流、絵本にまつわる記憶の掘り起こしと、複合的に作用する認知症対策になっていること。また、地域で子どもと高齢者が交流する機会を設けること自体、地域づくりへの大きな貢献になり、子どもへの効果や保護者への負担軽減といった効果も見込まれるのだ。シンプルだが、実によくできた仕組みである。ウチの役所でもやってみてはどうかしらん。

 

【2287冊目】アンディ・ウィアー『火星の人』

 

火星の人〔新版〕(上) (ハヤカワ文庫SF)

火星の人〔新版〕(上) (ハヤカワ文庫SF)

 

 

 

火星の人〔新版〕(下) (ハヤカワ文庫SF)

火星の人〔新版〕(下) (ハヤカワ文庫SF)

 

 

いや~、おもしろかった。映画『オデッセイ』を先に観ていたので(こちらもなかなかよかった)、あえて原作は読んでいなかったのだが、もったいないことであった。ちなみに読んだきっかけは、例のハヤカワ文庫ベスト100で『ソラリス』と『われはロボット』の間に挟まっていたため。でも、読んですぐ納得した。なるほど、この2冊に挟まれるだけのことはある。

猛烈な砂嵐に見舞われる中、仲間とはぐれて火星に一人置き去りになったマーク・ワトニーが主人公。残されたわずかな設備以外、空気もなければ水も食糧もない、地球と連絡を取ることさえできないという、究極のロビンソン・クルーソー状態(これに比べれば、絶海の孤島などかわいいものだ)。どう考えても絶望しかない状況でのワトニーの必死のサバイバル、そのリアリティが圧巻だ。

爆発しないよう、決死の思いで水素を燃やして水を生成する。自分の糞尿を肥料にジャガイモを育てる。不可能を可能にする知恵の数々で、不可能かと思われたサバイバルが徐々に現実味を帯びてくる。だが火星の環境もまた甘くない。わずかな失敗がそれまでの蓄積を吹き飛ばす。そして物語は思いもかけない展開を迎え……

奇跡もなければ魔法もなく、火星人も謎のウイルスも登場しない。火星のパートに登場するのはワトニーただ一人。だが、これはまぎれもなく、由緒正しき正統派のSF小説の末裔だ。ワトニーの取る手段は、現実に同じ環境に置かれた人が取り得る手段。ワトニーが遭遇するトラブルもまた、火星に行けば誰もが遭遇しておかしくないトラブル。徹底的に現実から足を離さず、論理と実証の組み立てのみで話を進め、それでいて500ページ以上にわたり、読み手を一瞬たりとも飽きさせない。ものすごい筆力、ものすごい発想の連続。

言い忘れていたことが、2つ。1つ目。ワトニーのユーモアが、この小説の「救い」になっている。ベタベタのアメリカンジョークとアメリカンユーモアなのだが、こういう気の滅入る状況ではそれこそが大事。シリアスな時こそ笑いを忘れずに、だ。地球でも必要な教訓である。

2つ目。本書は途中から、地球のパートとの2部構成になり、さらに後半からは思いもかけない人々(としておこう)も加わった3部構成になる。だが、やはり本書の最大の魅力は、火星での不可能サバイバルに挑むワトニーなのだ。映画を観た方も、騙されたと思って読んでほしい一冊だ。

 

 

 

【本以外】映画『サーチ』を観てきました

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行方不明の娘を父親が探すというミッシング物だが、特徴は映画全編がすべて「画面上」で展開すること……というと、イロモノの実験作かと思われるかもしれないが、いやいや、映画そのものとしての作りがしっかりしていて、まったく飽きさせない出来であった。PCの画面だけではなく、ニュース映像やビデオ録画などもうまく織り交ぜ、動きのある場面もしっかりフォローしている(車の移動シーンをどうするのかと思ったら、なんとカーナビの画面だった)。

むしろネット検索やマルチウィンドウの仕組みがストーリーにうまく活かされているのが斬新で面白い(関係ないはずの人物の顔が同じことに、ウィンドウを並べていて気付いたり、グーグルマップである地点を検索して、別の地点と意外に近いことを発見したり)。さらに、画面の外が「見えない」ということが独特の緊張感につながっている。ネットの匿名性の怖さも効果的に使われていて、ネット社会の「便利さ」と「恐ろしさ」が絶妙に織り込まれた一作になっている。

とはいえ、年頃の娘を持つ父親としては、リアルでは知らなかった娘の一面がSNS上に次々と出てくるシーンは、もはやミステリーというよりホラーである。父親が娘の友達を誰一人知らず、フェイスブックの「友達」リストを片っ端からあたっていくくだりなど、何とも身につまされるものがある。

それにしても、全部が「画面上」の展開というのは映画として異例と言えば異例だが、考えてみたら、これこそ映画でしかできない表現かもしれない。小説では、マルチウィンドウ上で電話しながら検索するようなシーンは再現できないだろう。ある意味で、本作は映画の新しい可能性を切り開いた作品なのかもしれない。

【2286冊目】マイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう』

 

これからの「正義」の話をしよう (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

これからの「正義」の話をしよう (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

 

 

だいぶ前に話題になった本。ハヤカワ文庫ベスト100に入っているのをみて、ああ、そういえば読んでなかったな、と気づいて手に取った。

というわけで、遅まきながら読んでみた。ビジネス書みたいなノリを予想していたので、けっこうガチで「哲学している」のに驚いた。ベンサム、カント、ロールズアリストテレスの思想が登場し、功利主義、リバタニアリズム、リベラリズムが説明され、その上で著者の寄って立つコミュニタリアニズムの思想が示される。まさにサンデル哲学のど真ん中を扱う一冊。テレビの影響とはいえ、よくこんな本(誉め言葉です)が売れたものだ。

とはいえ、難解な哲学用語を使わず、現代的でわかりやすい事例を引きながらの解説はさすがに見事なもの。特にカントの道徳哲学の「特異さ」をここまで明瞭に説明するのは名人芸だと思う。そう、歴史に名を残すような哲学者の考えって、実はとんでもなくエキセントリックで面白いのだが、独特の用語や難解な言い回し、過剰な権威付けにごってりと覆われていて、そのあたりがなかなか伝わりにくいのだ。サンデルはそのあたりを一切取り払いつつ、その本質だけを見事に切り出してみせてくれる。

その上での功利主義リベラリズムへの批判、「共通善」というもののあり方については、個人的には条件付きで賛成、といったところか。確かに、われわれはすべて、所属しているコミュニティの道徳の中で育ち、それを身につけている存在であるのだから、それを無視して個人の自由と理性だけに寄って立つ正義を想定するというのは、いささか無理のある考え方かもしれない。

だが一方で、一定の共同体の中で通用する「共通善」は、どうしてもその時代や文化、習慣などの影響を受けやすい。ある時代や場所では通用した道徳が、別の時代や場所では不道徳と認定されることはいくらでもある。その中では、今となってみれば不当な抑圧や差別とみなされるものもあるだろう。日本でもアメリカでも、近世における女性への扱い、最近までの同性愛者や障害者への扱いはどんなものだっただろうか。古代ギリシア奴隷制が認められていたからと言って、奴隷制は道徳的だろうか。

ある時代の文化や伝統に基づく道徳観念を重視しすぎることは、そこからはみ出す生き方を抑圧することにつながりやすい。一つの例として挙げたいのは、バスの白人専用席に座って逮捕されたローザ・パークスである。彼女は「正義」ではあったかもしれないが、その時代の道徳には背いていた。だがその逸脱の勇気が、公民権運動の大きなうねりを作り出したのではなかったか。

だから、確かにサンデルの論じているとおり、日常生活の中ではその共同体の道徳に従えばよいと思うのだ。だがそれはあくまで「仮留め」のものであり、絶対的な存在ではないということを忘れてはならない。リベラリズムとはそうした道徳が揺らいだ時に寄って立つべき大原則であり、道徳に対する保険のようなものだと思うのである。