自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【2189冊目】宮城公博『外道クライマー』

 「右手は今にもちぎれそうな草を鷲掴みにし、左手は粘膜たっぷりのカエルの穴蔵に突っ込む。両足は泥だか岩だか分からないようなものに乗せ、なんとか手を伸ばして這い上がろうとすると、次に掴まなければならないのはヘビがとぐろを巻いている細い枝だ。下は濁流が渦巻いており、落ちればどう考えても助からない。「頼むぞ」と声を上げ、まさに頼みの綱であるロープを握っている。パートナーを振り返れば、なんとロープなんぞ握っていない。両手を離して煙草に火をつけるのに必死でロープのことなんて忘れている」

 

外道クライマー

外道クライマー

 

 

登山の中に「沢登り」なるジャンルがあることは、本書を読んで初めて知った。

沢登りと聞くと、ハードなクライミングと違ってのどかで平坦な印象があるが、本書を読めばそれがとんでもない間違いであることがわかる。そのすさまじさを、名うての「沢ヤ」である著者は冒頭のように描写する。

名だたる高峰がことごとく制覇されてしまった今、未踏の世界は「沢登り」のほうにたくさん残されているという。特に「ゴルジュ」と呼ばれる、両側を切り立った崖に囲まれた水路や滝を登るキツさはすさまじい。

本書ではそんな「ゴルジュ」である富山県の「称名廊下」や台湾の「チャーカンシー」、さらにはタイのジャングルでの46日間にわたる沢登りを記録した、他に類を見ないワイルドでエキサイティングな一冊である。そこにあるのは、沢登りという「外道」でありながら、実は登山の「王道」をまっすぐ突き進んでいるとしか思えない、狂気と紙一重の情熱だ。

「登山とは、狂気を孕んだ表現活動なのだ」

 


その意味を肌身で感じることのできる、前代未聞の「沢登り」ノンフィクション。

【2188冊目】大澤真幸『思考術』

「考えることは書くことにおいて成就する」 

 

思考術 (河出ブックス)

思考術 (河出ブックス)

 

 
考える。そのために、読む。

著者は、書物を「思考の化学反応を促進する触媒」であるという。書物は、みずからの思考を深めるためのツールなのだ。だが、漫然と読んでいるだけでは、ショーペンハウエルも言うように、「書物に代わりに考えてもらう」ことになってしまう。では、思考のために書物を読むには、どのようにすればよいのだろうか。

本書は、著者自身がそのことを、具体的な書物の読み解きをもとにやってみせた、いわば模範演技集である。それも「社会科学」「文学」「自然科学」の3とおり。社会科学では「時間」、文学では「罪」、自然科学では「神」が、それぞれテーマである。

どれもなかなか面白いが、では具体的に自分がどうすればよいのかというと、なかなか難しいものがある。体操の初心者がいきなり内村航平の演技を見せられて「じゃあ、やってみなさい」と言われているようなものだ。具体的なノウハウに関しては、むしろ序章の「思考術原論」が役に立つ。

そして、終章では「書くこと」について書かれている。これが終章に置かれている理由は、冒頭に掲げた言葉に尽きる。さらに言えば、書くことによって思考は深まり、実体化するのである。このことは、著者のレベルとは数段違うが、この「読書ノート」を書いているとよくわかる。読んでいるうちはよくわからなかった本が、それでもどうにか書いているうちに「ああ、この本はこういうことを書いていたのか」と気づくという経験は、少なくない。

よく「インプット」とか「アウトプット」というが、本書を読むと、インプットは単なる情報の取り込みではなく、アウトプットも単なる情報の吐き出しではないことを実感する。インプットそのものが思考に寄り添っているのであり、アウトプットそのものが思考を形成しているのである。本書は、そうした思考のダイナミズムを知るための一冊なのだ。

【2187冊目】ロベルト・ボラーニョ『ムッシュー・パン』

 

ムッシュー・パン (ボラーニョ・コレクション)

ムッシュー・パン (ボラーニョ・コレクション)

 

 



不穏な空気。不条理な物語。謎めいたスペイン人。会うことのできない患者。う~ん、これって、カフカ

【2186冊目】吉田敦彦『日本人の女神信仰』

 

日本人の女神信仰

日本人の女神信仰

 

 

「現在の人類の宗教と神話は明らかに、万物の母である尊い女神として神格化された大地を崇める」

 

 

本書の「あとがき」で著者はこう断言する。本書はその「証拠」となるさまざまな神話や信仰のありようを、日本神話との比較の中で明らかにする一冊だ。といっても、いろんな論稿が集められた本であって、必ずしも「女神信仰」をテーマとするものばかりではないので、念のため。

冒頭で取り上げられるのは、縄文時代の「柄鏡型住居」である。円形の「鏡」部分と、そこから伸びる「柄」の形をした住居の出入り口には、甕が埋められていることが多い。そして著者によれば、当時の人々はその甕のなかに、なんと「死産児」を入れて埋葬したのだという。

これって、いったいどういうことなのか。著者の分析では、そもそも「柄鏡型住居」そのものが母体をかたどっているという。「鏡」にあたる本体部分が胎内、柄の部分が産道だ。そしてこの建物は、普段の住居ではなく、おそらく儀式の場、祭場として使われていた。儀式に参加する人々は産道をくぐって母体に戻る=「出生」から「死」への逆行を行うのであって、儀式を経て外に出ることは、その逆に新たな生命を得て再生することであったのだ。したがって甕に入れられた死産児も、母体の入口に埋葬されることで、「体内(胎内)への戻り」が擬制されているということになるのである。

さらに日本神話を辿っていくと、「母」が生み出すのは、必ずしも「子」ばかりではないことに気づかされる。『古事記』に出てくるオホゲツヒメや『日本書紀』に出てくるウケモチという女神は、排泄物から食事を生み出して客人(スサノオツクヨミ)に提供する。そして、排泄物を食わせていたとして怒りを買って殺されると、そのバラバラになった身体からはさまざまな作物があらわれるのだ。

こうした思考のルーツを、著者は縄文時代土偶に見る。女神をかたどった土偶がたくさん作られたが、完全な形で見つかったものはほとんどないという。どの土偶も壊され、バラバラになった状態で発見されているのだ。この意味について著者は、オホゲツヒメやウケモチのように、バラバラになることで大地の恵みをもたらす女神のパワーが砕かれることで拡散され、実りをもたらしてきたのではないかとみる。そしてこの話を後代まで辿っていくと、なんとそれは山姥にまで行きつくというのである(殺された山姥の身体から穀物が取れたり、山姥の血で蕎麦の茎が赤く染まったりするのはその一例だ)。山姥とは、縄文時代の女神信仰から日本神話の女神たちにつらなる系譜の末裔だったのだ。


【2185冊目】宮本太郎『共生保障』

 

共生保障 〈支え合い〉の戦略 (岩波新書)

共生保障 〈支え合い〉の戦略 (岩波新書)

 



共生」がキーワードになっているが、内容としては前著『生活保障』の延長線上にある一冊だ。制度疲労状態となっている日本の社会保障や雇用制度を検証しつつ、「地域での支え合い」の事例をヒントに、あるべき社会保障の仕組みを構想する。

支え合いと言っても、多くの制度や社会の現状をみると「支える側」と「支えられる側」が分断されている。このことが本書全体を貫く問題意識となっている。住宅政策でいえば、一方の「持ち家中心主義」と、もう一方の「低所得者向けの住宅供給」。社会保障では、企業が福利厚生を担う一方、その恩恵を受けられない場合は一挙に生活保護になってしまう。さまざまな政策が両極に偏り過ぎていて、中間がすっぽり抜けている。

本書はその「中間」を考える一冊といえる。ポイントは「支える側」と「支えられる側」を分断せず、相互に支え合う仕組みを作ること。そして、「支え合い」に丸投げするのではなく、「支え合いを支える」ための仕組みを作っていくことだ。

本書にはさまざまな地域の事例が紹介されている。だが、著者自身も書いているとおり、それがそのままこの国を救う処方箋になるとは限らない。地域の政策はあくまで地域のオーダーメイドであり、単純に応用すれば済むというものではないのだ。国がなすべきことは、従来の縦割り型の補助金制度ではなく地域の創意工夫を財政面から柔軟にバックアップするための制度構築であり(これは主に官庁の役割)、そしてやはり、社会保障を支えるための税源確保として「増税」に踏み切る覚悟であろう(これは政治の役割)。

だが、増税がうまくいかず社会保障制度が壊れかかっている一因は、増税を唱える政治家や政党が選挙に落ちることが当たり前になってしまっている現状にあることも忘れてはならない。民主主義に良い点があるとすれば、愚かな有権者は報いを受ける、ということなのかもしれない。