自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【2184冊目】佐藤究『QJKJQ』

 

QJKJQ

QJKJQ

 

 

「家族全員が猟奇殺人者」という設定で「うげっ」と思った人こそ、一読をおススメしたい。

いかにもな設定を次々と裏切り続けるプロットは、ネタバレなしの解説不能。適切な評をひとつ選ぶなら、やはり有栖川有栖の選評にある「平成のドグラ・マグラ」だろうか。同じく選評において辻村深月が「この作品を新しいとは思わない」と書いているのも、まったくそのとおり。

この著者が採用している「仕掛け」は、ある意味古典的ではあるものの、だからこそかえって「うまく使う」ことが難しい。せめてSFだったら設定次第で何とでもなるところだが、著者はそれを現代を舞台にしたミステリーという、もっとも難度の高い状況の中で鮮やかに使いこなしてみせた。いや、それだけではない。その上でこの作品をひとつの「小説」としてきっちり仕上げ、驚きどころかある種の感動さえ呼び起こすものにしてしまったのである。

ここ数年の江戸川乱歩賞の中でも、収穫となる一作だろう。だが、気になるのはこんな作品をいきなり出してしまって、この後をどうするのか、ということ。それでなくても、巻末の「乱歩賞受賞リスト」を見ればわかるように、賞を取ったもののその後は鳴かず飛ばず、という作家も少なくないのである。心配だ。

【2183冊目】森見登美彦『美女と竹林』

 

美女と竹林 (光文社文庫)

美女と竹林 (光文社文庫)

 

 
エッセイというか、メタエッセイというか。エッセイはふつう一人称だが、これは三人称。「森見登美彦氏」の日々を外から綴るというスタイルが飄逸だ。

竹林を刈るの刈らないの、憧れの本上まなみさんと会ったの会わないのと(一応これで「美女と竹林」になるということか)、書かれているのははっきりいってどうでもいい日常のダラダラ加減。まあ『四畳半王国』系のダラダラ学生モードが、社会人になってもずっと続いている感じだ。

読書に意義や意味を求める人はやめたほうがいいが、娯楽として本を読みたい人なら楽しめる。第三者視点からの冷めたツッコミが絶妙だ。仕事で疲れた日の帰りにパラパラ読んで、よい息抜きになりました。

【2182冊目】マックス・ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』

プロテスタンティズムの世俗内的禁欲は、所有物の無頓着な享楽に全力をあげて反対し、消費を、とりわけ奢侈的な消費を圧殺した。その反面、この禁欲は心理的効果として財の獲得を伝統主義的倫理の障害から解き放った、利潤の追求を合法化したばかりでなく、それを(上述したような意味で)まさしく神の意志に添うものと考えて、そうした伝統主義的な桎梏を破砕してしまったのだ(マックス・ヴェーバープロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』 p.342)

 

 

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)

 

 
経済を上向かせるには、消費を増やすべし。そんな経済の「常識」をまるごと裏返し、「禁欲こそが近代資本主義を育てた」ことを明らかにしたこの本は、マックス・ヴェーバーの代表作にして、社会学の古典中の古典である。

宗教改革によって生まれたプロテスタンティズム、中でもカルヴァンの唱えた徹底した禁欲思想が、なぜ資本主義を大きく進めたのか。その前提となるのが、そもそも財産は自分のものではなく、本来「神のもの」である、という発想だ。ここから2つの発想が生まれる。1つは、神のものである富を蓄えることは宗教倫理に反しない、したがって「儲ける」ことは正当化される。もう1つは、そのようにして貯めた財産を、自分の贅沢のために使ってはならないというものだ。

この2つが行きつくところは、膨大な財産的蓄積だ。そりゃそうである。勤勉に働いてせっせとお金を貯め、貯まったお金は使わないのだから。ここにさらに「天職(Beruf)」という概念が加わる。職業とは神から与えられたものであり、その仕事に邁進することが神に貢献する道なのだ。ただし、これは決して「仕事をがんばれば救われる」というような考えではない。カルヴァンの教えでは、人が救われるかどうかは神のみぞ知ることで、しかも最初から決まっているというのだから。

救われるかどうかには関係なく、信仰の道に自らを捧げる。稼いだお金を好きに使えなくたって、がんばって働いてせっせと貯める。この、一見狂信的とも思える宗教的発想が、勤勉と蓄財を両立させ、近代資本主義のトリガーとなった。もっとも、だったらプロテスタント圏以外の国、例えば日本で同じような「勤勉と蓄財」が成り立った理由をどう考えるか、という疑問も湧いてくるが、それはともかく、近代資本主義が西洋において生まれたことの説明にはなっていると思われる。

説明が詳細にわたり、注釈も非常に多く(たぶん本文と同じくらいのボリューム)、本筋を外さないで読んでいくのは結構大変だった。だがそれだけに、著者の到達した結論には、いろいろ疑問はあるにせよ深く納得させられる一冊だ。

【2181冊目】高野秀行『イスラム飲酒紀行』

イスラム圏は異教徒も「込み」で成立していたのではないか。そう考えないと、イスラム圏のムスリムは、今でも異教徒に(略)驚くほど寛容で気遣いがあることが説明できない(高野秀行イスラム飲酒紀行』p.314「あとがき」より)

 

 

イスラム飲酒紀行 (講談社文庫)

イスラム飲酒紀行 (講談社文庫)

 

 

酒が飲めないはずのイスラム圏で酒を求めて旅をするという、もはや著者にしかできないであろうトンデモな旅の記録。

もちろんそういう旅ができるということは、実はイスラム圏の人々も、表では「飲まない」と言ってはいるが、裏ではこっそり飲んでいるのだ。だが、その「裏」にたどり着くためには、交渉し、裏を探り、時には危ない目にも合わなければならない。その地域の上っ面だけを撫でているような「ぬるい」紀行作家には、到底書けない本なのである。

だから本書は、飲酒という切り口でイスラム社会を切り取ることで、実はイスラム社会そのものの裏側に光を当てた一冊なのだ。まあ、裏側といってもとんでもないアンダーグラウンドなものではなく、自分たちだけが知っている、こっそり酒が飲める場所だったり、売っている店だったりするのだけれど。そして、そういうところを探すうちに著者が得た確信が、冒頭のセリフになってくるのだ。

実際、著者が出会うイスラム圏の人々は、びっくりするほど親切でフレンドリーだ。それは著者自身の人柄ということもあるのだろうが、それを差し引いても、よく言われる「イスラム教徒の非寛容性」とかいう言葉が、実際は全然違っていることが、本書を読むとよくわかる。そんな言葉は、現地のタクシーの運転手やお店の人とちゃんとコミュニケーションを取らず、先入観だけでイスラム社会を見ているからこそ出てくるのではないだろうか。

【2180冊目】星野道夫『旅をする木』

「東京での仕事は忙しかったけれど、本当に行って良かった。何が良かったかって? それはね、私が東京であわただしく働いている時、その同じ瞬間、もしかするとアラスカの海でクジラが飛び上がっているかもしれない、それを知ったこと・・・・・・」(星野道夫旅をする木』p.123)

 

 

旅をする木 (文春文庫)

旅をする木 (文春文庫)

 

 
読む前は興味さえなかったアラスカという土地に、読み終わった今は、行きたくてしょうがない。この本は、危険すぎる。

17年間にわたりアラスカに住む著者が綴る、自然の雄大さと繊細さ、現地の人々との交流。クマ。クジラ。カリブー。オーロラ。インディアン。一瞬の油断で命が奪われる自然の厳しさも、そこにはしっかりと描かれている。

だがなんといっても、世界にはそんな場所もあり、そんな光景もあるのだということに、読んでいて本当に心打たれ、勇気づけられる。そして、文章で読むだけでなく、実際にそこに行き、そんな光景を目に焼き付けたくなるのである。そう、冒頭の言葉を発した、東京で働く編集者のように・・・・・・