自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【2099冊目】平木典子『アサーション・トレーニング』

 

改訂版 アサーション・トレーニング ―さわやかな〈自己表現〉のために

改訂版 アサーション・トレーニング ―さわやかな〈自己表現〉のために

 

 
コミュニケーション・スキルとして「アサーション」が定着してずいぶん経つ。だが、本書の初版が発売された1993年頃は、まだまだアサーションと言ってもなかなか通じなかったという。そんな状況からスタートして「アサーション・トレーニング」を日本に普及させてきた著者が、25年前の「原典」をリニューアルしたのが本書。「さわやかな人間関係」というキャッチフレーズは今読むといささかうさんくさいが、読者がアサーションのことをまったく知らないことを前提に、わかりやすく要諦をまとめている。

英和辞典を引くと、アサーション(assertion)は「主張」「断言」と訳されている。だが、それはアサーションの意味を正確に伝えていない、と著者は言う。一方的な主張ではなく、「自分も相手も大切にするコミュニケーション」がアサーションなのだ。だからそこには「話す」だけでなく「聴く」ことも含まれている。

その意味を捉えるには、「自分や相手を大切にしない」コミュニケーションがどういうものかを考えてみればよい。自分を大切にしないコミュニケーションとは、言いたいことを抑え込んで相手の言いなりになり、我慢するという「非主張的」なものである。一方、相手を大切にしないコミュニケーションとは、相手をやり込め、言いなりにさせる「攻撃的」なもののことだ。

この両者は正反対に思えるが「自分や相手を尊重していない」という点で共通するものがある。そして、相手を尊重できない人が自分を尊重できるわけはないし、その逆も同じこと。つまりこれらは「人間を尊重していない」コミュニケーションのあり方なのだ。

だが、私たちは誰からも尊重され、大切にしてもらう権利がある、と著者は言う。それが「アサーション権」の第一条である。アサーションが大切なのは、単にそれを使えばコミュニケーションがうまくいくというだけの理由ではない。それは、人間尊重という基本的な権利の実現なのだ。ちなみに他の「アサーション権」は「自分の行動を自分で決定し、その結果に責任をもつ権利」「過ちをし、それに責任をもつ権利」「支払いに見合ったものを得る権利」「自己主張をしない権利」。

ここで面白いのは「自己主張しない権利」もここに含まれていること。アサーションは絶対ではないし、自己主張は義務ではないのだ。当たり前のことではあるが、自己主張を「強要」する人は意外に多いので、注意が必要なところであろう。

アサーティブな考え方としては「感情は考えに対する反応であり、考えは状況に対する反応だ」というA・エリスの言葉が印象に残った。これはつまり、何かが起きたからといって、それに対する感情がそこから引き起こされるわけではない、ということだ。例えば「誰かが自分を嫌いだと言った」(状況)から「私が落ち込む」(感情)というのは、違うという。そこには「嫌われたということは、落ち込むような出来事である」という「考え」が介在しているのである。

したがって、ここの「考え」を検証することで、感情をあり程度コントロールすることができる。非現実的な考え方や思い込みがここにはさまっていると、状況としてはたいしたことが起きていなくても、いろいろな感情がそこから湧き上がってくるのである。例えば「自分は誰からも愛されなければならない」「人は完全を期すべきで、失敗してはならない」「思い通りに事が運ばないことは許されない」などという思い込みを、私たちはどこかで持っていないだろうか? いや、こうやって文字にすると「そんなことはない」と言いたくなるかもしれないが、漠然とこうした思いを持っている人、仕事や家庭や恋人に対してこうした考えを持っている人はいないだろうか?

それにしても、アサーションなんて知ってるよ、と言う人は多いだろうが、だがどれほどの人が実践できているかを考えると、「知っている」ことと「できている」ことは別モノだとあらためて感じる。まあ、だからこういう本が出ていても、研修講師の仕事はなくならないのだろうが……。月並だが、やっぱりコミュニケーションって難しいと、改めて感じた一冊であった。

【2098冊目】ジュディ・バドニッツ『元気で大きいアメリカの赤ちゃん』

 

元気で大きいアメリカの赤ちゃん

元気で大きいアメリカの赤ちゃん

 

 



短編集。「わたしたちの来たところ」「流す」「ナディア」「来訪者」「顔」「奇跡」「セールス」「象と少年」「水のなか」「優しい切断」「備え」「母たちの島」が収められている。

現実と幻想が交錯するシュールな作品から、痛烈な批評精神とユーモアに彩られた一篇まで。切れ味鋭く、それでいて奇妙な読後感の残る作品ばかり。特に、妊娠や出産がこれほどよく出てくる短編集は珍しい。赤ちゃんという「自分であって自分でない」存在の不可思議さが、体感レベルで感じられる。

「わたしたちの来たところ」では、生まれてくる子供にアメリカの市民権を得させようと、何度もアメリカに密入国しようとする女性が描かれる。その間、なんと4年。生まれてすぐに「自分の権利」を主張する赤ちゃんを見て、医者はつぶやく。「これぞまさに”元気で大きいアメリカの赤ちゃん”というやつだな」

「奇跡」は、白人夫婦の間に真っ黒な赤ん坊が生まれる話だ。黒人の男が他にいるのではないかと疑う夫と、驚きながらも子供を愛する妻のすれ違いが、びっくりするような結末に至る。だがいつだって、父にとって赤ん坊はどこかしら「異物」なのだし、母にとっては疑う余地のない絶対的な対象なのだ。

ディストピア的な「顔」や「備え」の不気味さ、悪意と差別を子どもの目から描いた「ナディア」「水のなか」や、慈善という名の偽善を体現するような女性が出てくる「象と少年」の後味の悪さ、セールスマンを檻で飼う「セールス」のシュールさと、繰り出される世界は多様多彩ながら、どこか相通じるものを感じる。

その正体が何なのかを言葉にすることは難しいが、あえて言えばそれは、現実が実はシュールなものであり、この社会こそがディストピアであり、人の悪意が普遍的なものであるという「実感」なのではなかろうか。その微妙な感覚は、日本でいえば村田沙耶香あたりが近いかもしれないが、多芸さと底の深さはバドニッツのほうが一枚上か。今度はこの人が書く、バリバリの近未来ディストピア小説を読んでみたい。

【2097冊目】櫻井武『食欲の科学』

 

食欲の科学 (ブルーバックス)

食欲の科学 (ブルーバックス)

 

 
食欲の科学と言われても、ピンとこない人も多いだろう。腹が減ったら食欲が増す。満腹になると食欲は減退する。ただそれだけのことじゃないの? と。だが本書によれば、食欲とはそんなに単純なモノじゃない。食欲とは脳全体が関わる複雑精妙な機能なのだ。

食べることそのものは、わたしたちの生そのものを維持する「原始的かつ根源的な行動」である。だが、ここでもう一つ考えておかなければならないのは、「たくさん食べる日」も「それほど食べない日」もあるにもかかわらず、わたしたちの体重が長い目で見ればそれほど変わらない、ということである。これを「体重の恒常性」という。

必要な栄養分を摂取しつつ体重を一定に保つには、「自分の体重をモニタリングするしくみ」と「それに応じて食欲をコントロールするしくみ」のふたつが、脳に備わっていなければならないことになる。本書はそのしくみがどのようにできあがっているかを解説した一冊なのだが、同時にそれがどのように「誤作動」するかについても明らかにしている。

だが、なぜ食欲は「誤作動」するのか。それは言うまでもなく、かつての人類も含めたほぼすべての生物にとって「飢えた状態」がデフォルトだったからだ。何万年(あるいはそれ以上)にわたってずっと飢餓に対応してきた生体システムが、わずか数十年で、いきなり「飽食の時代」に放り込まれたのである。つまり著者が本書の冒頭で書いているように「空腹のためではなく「おいしいから食べる」」という、生物史上例を見ない特殊な状態に、わたしたちは置かれているわけなのだ。

食欲ほどわたしたちに身近な「欲」はない。食欲ほどわたしたちを悩ませる「欲」はない。食欲ほど、わたしたちが生きるためには必要であるにもかかわらず、暴走して寿命を縮めてしまう危険をもった「欲」はない。にもかかわらず、そんな食欲が実のところどんなしくみで成り立っているのかを知っている人は、ほとんどいない。

本書はそんな疑問にわかりやすく答えてくれる秀逸な一冊だ。化学物質の名前が連発されるのには閉口するし、生物学と生理学の基礎的な知識は必要だが、それでもなんとか通して読むだけで、「食欲」という不可解な存在の正体がおぼろげながら見えてくる。奇しくも今は「食欲の秋」。秋の味覚を楽しむ前に、一度読んでおくとよい。

【2096冊目】岡田尊司『ストレスと適応障害』

 

 
適応障害という言葉をよく聞くが、どんな意味かと問われると、なんだかよくわからない。深刻な障害のようにも、誰もが陥る状態のようにも思える。

病気や障害のほとんどは「本人の状態」が問題となる。したがって、本人の状態を改善することが治療法であったり、対応方針であったりすることが多い(本当は「障害」全般も社会との関係で生じるとされているのだが、そうした考えはまだまだ市民権を得ているとは言えないだろう)。

それに対して適応障害は、環境との関係が問題になる。適応障害とは「環境にうまくなじめないことによって生じる心のトラブル」なのである。対応方法は、「自分の状態を何とかする」か「環境そのものを変える」の大きく2つ。ちなみに、その中でも問題となる環境の作用が「ストレス」である。

適応障害は、別の名前で呼ばれていることもあるという。中でも多いのは「新型うつ病」である。そもそも、適応障害うつ病ではないが、うつ病と似たような症状を呈する。だが、うつ病は環境要因が取り払われても簡単に症状が改善しないのに対して、適応障害の場合は、要因となる環境が変わることで一気に改善する。「新型うつ病」は、会社や学校などの特定の場面ではうつ症状を呈するが、遊びとなるととたんに元気になる。これは著者に言わせると「そもそもうつ病じゃない」のである。

怖いのは、これが医者にかかってうつ病と診断されると、抗うつ薬を処方されてしまって体がだるくなり、かえって意欲が低下して「本当の病人になってしまう」ことである。クリニックによっては受診するケースの9割が適応障害ということもあるらしい。医者が病人をつくってしまう典型だろう。

さて、では仮に、自分や周囲の人を見て、適応障害を疑ったとしよう。対処すべきは、そこにかかっているストレスである。原因になっているストレスそのものを避けるか、何らかの方法でストレスを乗り越えるか。先ほど挙げた「2つのパターン」である。

その具体的なメソッドは本書の中にぎっしり詰まっているが、ひとつ印象に残ったのは「安全基地」をつくるという方法だ。安全基地とは、ストレスを感じたときにいつでも頼ることのできる「何か」のこと。それは家庭かもしれないし、友人かもしれず、あるいは安心できる場所のようなものかもしれない。ただ、安全基地は必要になってからあわてて作ろうとしても手遅れなことが多い。普段からこうした場所を用意しておき、あるいはメンテナンスしておく。ストレスへの対処が上手い人とは、こうした場所をいくつも持っている人なのだろう。

だから、というわけじゃないが、例えば仕事に熱中していても、家庭や趣味を大事にすることが重要になってくる。ふだんから周りにいろいろ相談するのも良いだろう。逆に言えば、「目的達成」に役に立たないモノをすぐ切り捨てる人、なんでも自分で対処して弱みを見せないような人は、実はメンタル面のリスク管理にいささか問題があるということになる。

なお、同じ環境に直面しても、それを不安に思う人もいればそうでない人もいる。本書を読んでびっくりしたのは、そうした「不安が強いかどうか」は遺伝子のレベルで決まっている、ということだ。ちなみに日本人では、不安を感じやすい人が三分の二を占めるとのこと。だからこそ、本書で提示されているような、不安やストレスに対処するスキルが大事になってくるのだろう。

【2095冊目】森見登美彦『ペンギン・ハイウェイ』

 

ペンギン・ハイウェイ (角川文庫)

ペンギン・ハイウェイ (角川文庫)

 

 
町に突然あらわれるペンギン。ペンギンを生み出す力をもった謎の「お姉さん」。そして森の中に突然あらわれた不思議な「海」……。不思議な要素満載の青春SF小説。

日本SF大賞を受賞したらしいが、サイエンス・フィクションというより藤子不二雄の「すこし・ふしぎ」の方がしっくりくる。何といってもチャーミングなのが、妙に大人びた小学4年生の「ぼく」のキャラ。なにしろ一行目から「ぼくはたいへん頭が良く、しかも努力をおこたらずに勉強するのである」とくるのだから、恐れ入る。しかも大人になるまでは、「三千と八百八十八日かかる」のだ。「そうするとぼくは三千と八百八十八日分えらくなるわけだ。その日が来たとき、自分がどれだけえらくなっているか見当もつかない。えらくなりすぎてタイヘンである」

これを高校生や中学生が言ったらイタイが、小学4年生だとちょっとかわいくさえ思えてしまうから不思議である。そしてこれは、このちょっと(かなり)ませた小学4年生の視点から綴られたスタンド・バイ・ミー、あるいはいっそ『映画ドラえもん のび太ペンギン・ハイウェイ』的な作品なのだ。

だから本書は、架空の町が舞台のSFなのに、なんともノスタルジックでせつない物語となっている。いじめられっ子のウチダくんも、チェスの強いハマモトさんも、ジャイアンみたいなスズキくんも、みんな私たちが小学校4年生の頃に出会い、遊び、ケンカし、冒険した仲間なのだ。こういう「体験したことのない過去を懐かしく思い出す」小説を書かせると、この人は本当に上手い。前に読んだ作品では大学時代だったが、本書では小学生の頃。おそらく著者は、自分自身の中に「小学校4年生」がちゃんと息をしているのだろう。

 

 

スタンド・バイ・ミー―恐怖の四季 秋冬編 (新潮文庫)

スタンド・バイ・ミー―恐怖の四季 秋冬編 (新潮文庫)