自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【2089冊目】吉増剛造『怪物君』

 

怪物君

怪物君

 

 


異形の作品。日本語の極北。

一ページとして引用さえできない、とんでもないルビ、注釈、送りがな。万葉仮名を思わせる漢字の「当て字」に、フランス語、ハングル、さらには手書きの文字?までが入り乱れる。一行の詩に対する膨大な脚注。畳みこまれている、異様なペインティング。

読むことさえ成り立たない本だが、それでも懸命に文字を追っていくうちに、そこに残響している「音」の多彩さに気づかされる。それは古代から続く呪術的な音の連なりであり(折口信夫死者の書』の冒頭を思わせる)、東日本大震災での津波の残影であり、前衛のさらに「先」からの未来の響きである。

文字通りの「怪物」的な一冊。言葉の彼岸にコトバをもってたどり着いた本について、語る言葉など、持つわけがない。読め。そして、打ちのめされよ!

【2088冊目】タミム・アンサーリー『イスラームから見た「世界史」』

 

イスラームから見た「世界史」

イスラームから見た「世界史」

 

 
600頁を超える大著だが、あまりの面白さに一気読み。「物語として書いた」と著者みずから言うとおり、圧巻の「語り」で、メソポタミア文明から911まで(あとがきでは「ジャスミン革命」まで)をなめつくす。

911の時、欧米の多くの人は「なぜあんなことが」と思った。単純な連中は「頭のおかしいテロリストの仕業」として片づけたかもしれないが、もう少しものを考えられる人は、これまであまりにもイスラームのことを知らなかったということに気付かされただろう。本書はいわば、そうした人々の要請に応えるようにして、現代のイスラーム諸国や「イスラム過激派」がどういう歴史的文脈を経て今のようなカタチになったのかを、政治、社会、文化、思想、そしてなんといってもイスラームという「宗教」に着目して解き明かしてみせた一冊なのだ。

実際、ヨーロッパ側から見た世界史ではわからないことが、本書には山ほど書かれている。「十字軍」はイスラームの側からはどう見えていたのか(あまりの野蛮さに驚き、「文明のかけらも認められなかった」)、なぜ近代以降、西洋の後塵を拝することになったのか(大航海時代でアメリカ大陸から大量の金銀を獲得したことが、逆転のキーポイントになったようだ)、産業革命がなぜイスラームでは起こらなかったのか(厳密には、蒸気機関などはとっくに発明されていたが、それを活かす社会状況にはなかった)。従来の「世界史」をよく知っている人ほど、本書は「今まで知っていた歴史を裏側からみる」面白さに満ちているはずだ。

だが、本来は「裏」も「表」もない。歴史とはそもそも、どちらの側から見るかによってまるっきりその姿を変えるものだからだ。その意味では、「イスラーム側」に視点を固定した本書の見方もまた一面的なのである。だが、これまではあまりにも「ヨーロッパ寄り」の歴史観に偏り過ぎていた。そのバランスを是正する意味で、本書を読む意味は非常に大きい。

ちなみに、本書には「日本」は一度しか出てこない(どこに出てくると思いますか?)。それほどまでに、イスラームと日本の歴史は交錯しないまま現代に至っているということだ。日本にとっても、イスラームの重要性といえばせいぜい石油の産出国であるという程度だろう。パレスチナ問題も「ジャスミン革命」も、遠い海外の出来事でしかない。

だが、本書を読めば、特に近代以降の日本とイスラーム諸国が辿った運命は、非常によく似ていることがよくわかる。独自の高度な文化を享受していたこと。そこに西洋の産業革命や民主主義が一方的になだれ込んできたこと。その中で適応しようともがき、試行錯誤してきたこと。

だが、決定的に違うのは、イスラームという強固な宗教が後者には存在したことだろう。日本は近代化へのカウンター・パワーが乏しく、そのまま「富国強兵」へと一瀉千里、西洋型の強国を目指すことができた。一方、イスラームは、近代化を常に引き戻す役割を担ってきたといえる。なぜなら、イスラームとは単なる「個人の宗教」ではなく、政治や経済、社会全体にまたがる「共同体の宗教」であるからだ。

キリスト教という宗教は本質的に個人にかかわるものであり、個々人が救済されるための青写真を提供する(略)。それとは対照的にイスラームという宗教は、共同体がいかに機能するかという青写真を提供するものである。いかなる改革運動であれ、各自が最良と思う宗教実践を行う権利を個々人に保証することを目指すような運動は、イスラームそのものの中核をなす教義に本質的に逆らうものなのだ」

だからこそ、イスラームには宗教改革が起こらず、個人に対して権利を与えるという発想にも至らなかったのだ。

ちなみに、著者はイスラーム世界を「ミドルワールド」と呼ぶ。そういえば、こないだ読んだ梅棹忠夫は、この地域を「中洋」と呼んでいた。共通するのは、この地域こそが近代までの世界史の中核であり、ここから目を逸らしては世界を読み解くことはできない、という認識だろう。

読んでよかった。イスラームについて知らないということは、世界について何も知らないということだ、ということがよくわかった。イスラム国やイスラム原理主義の勃興は、私たちの歴史的無知への代償なのかもしれない。

【2087冊目】岡田一郎『革新自治体』

 

革新自治体 - 熱狂と挫折に何を学ぶか (中公新書)

革新自治体 - 熱狂と挫折に何を学ぶか (中公新書)

 

 
私も美濃部都政や、ましてや飛鳥田市政をリアルタイムで知っているわけではないが、それにしてもこういう本が刊行されるとは、なんだか感慨深いものを感じる。革新自治体の登場は、もはや「歴史上の出来事」なのだ。だが考えてみると、1960年代から70年代といえば、およそ半世紀前の話。本書の著者は1973年生まれだから、まさに生まれたころに起きたコトなのである。

不思議なのは、国政選挙では一貫して保守政党である自民党が政権を担っていたにもかかわらず、なぜ地方では、それも東京都や大阪府横浜市などの大規模自治体で、左派の革新勢力が選挙を勝ち抜くことができたのか、ということだ。この点については、社会党を中心とした左派勢力が信任を得たというより「社会資本整備や公害規制を求める民意」が原動力となったという指摘がなされているが、ということは、国政選挙では左派勢力はこうした「民意」の受け皿にはなれなかった、ということか。

実際、本書で痛烈に描かれているのは、内部分裂や内輪もめに明け暮れ、革新派の首長を支えるどころか足を引っ張ってきた社会党共産党の体たらくである。本書には美濃部都知事が漏らしたという「外ではいえないが、いちばん困るのは社会党です」という恨み節も紹介されている。政権を担う側に対して文句をつけるのはうまくても、いざ自らが政治の実権を握ると、ごちゃごちゃもめるばかりで政策も指導性も発揮できないという彼らの姿は、後の民主党を思わせるものがある。「苦境にあって助けてもらったような記憶があまりない」という美濃部氏の述懐はおそらく本音であろう。

そしてもう一つの凋落の原因は、革新派の首長が「市民自治」に期待をしすぎたという点にあるように思う。松下圭一が言うように、成熟した民主主義社会では、本来は「市民」が主体的に政治に参画し、自ら問題の解決にあたるべきである。だが実際には、住民は依然として「お任せ民主主義」から脱することはなく、松下氏が言うように「水戸黄門のような存在が現れるのをひたすら待ち続ける」ばかりであった。

だがこの点についていえば、やはり市民自治の伝統が根付いたヨーロッパやアメリカと「上からの民主主義」を享受するのみの日本を同列に論じることが、はたして妥当なのか、という点が、そもそも疑問である。私も以前はこの手の理想論に共感してきたが、やはり今になって感じるのは、この前提にはいささか無理があるのではないか、ということだ。問題はこうした「輸入モノ」の民主主義をどのように育てていくかということであって、一足飛びに「欧米ではこうだから、日本もこうあるべきだ」と論じるのは、あまり有益な議論の仕方とはいえないのではないだろうか。

【2086冊目】施川ユウキ『バーナード嬢曰く』

 

バーナード嬢曰く。 (REXコミックス)

バーナード嬢曰く。 (REXコミックス)

 

 

 

 

 

 

いつも図書室で本を読んでいる……ように見えるが、実は「読書家に見られたい」だけの女、町田さわ子こと「バーナード嬢」。本を読まずに読書家ぶりたい彼女を、最初は笑い、途中から自分の姿を重ね合わせ、最後のほうはむしろ見上げるほどになる。

自分のことを振り返ってみるに、「読書家に見られたいから本を読んでるワケじゃない」と言いつつも、実は自分のどこかで「やっぱり読書家に見られたい」という願望は、間違いなく存在する。「読む」という行為は今読んでいる一冊だけの問題だけど、「読書家かどうか」という評価は、これまで読んできた本のストックにかかってくる。理想的には、人は「今読んでいる一冊」の積み重なりの結果として「読書家」になるワケだが、そのプロセスを飛ばして「読書の蓄積」という結果だけ手に入れたいという虫の良い考えも、まったくわからないわけじゃない。

本書の主人公、バーナード嬢がある意味スゴイのは、そのことを隠さない点だ。私自身はみっともないと思い、ひた隠しにしようとしている願望を、恥ずかしげもなく表に出している。そこがギャグとして面白いところであり、「読書家」志望者としては、笑いを通り越していろいろ考えさせられてしまうのである。極端に言ってしまえば、「本を読む」とはそもそもどういうことか、という深い問いかけに、この本は思いもかけないアングルから強烈なライトを浴びせてくるのだ。

さらに本書は「オモシロ本」「気になる本」の宝庫でもある。古典的な名著からベストセラー本まで(『平家物語』から『KAGEROU』まで)が取り上げられており、特にSF関係が濃い(個人的には、ディックの『ユービック』がすごく気になった)。「ディストピア系の本は黒い表紙が多い」なんて、言われるまで全然気づかなかった。

でも実は、本書を読んで一番笑ったのは、絵本『3匹のやぎのがらがらどん』についてのくだり。電車の中だったのに、腹を抱えて笑いたくなって困った。「(前略)でいよいよ三番目のヤギが出てくるんだけど、そいつがトロールを越える化け物みたいなムッキムキのヤギで、その圧倒的な暴力によってトロールはバラバラにされ殺されちゃうんだ」「三匹のヤギが力を合わせて知恵と勇気で化け物に勝つお話かと思ったら「暴力にはより強い暴力で」っていうあまりにもシビアかつストレートなメッセージを叩きつけられた」……う~ん、確かにそうかも。でも、こんなツッコミをしたのって、この本が初めてでは?

 

ユービック (1978年) (ハヤカワ文庫―SF)

ユービック (1978年) (ハヤカワ文庫―SF)

 

 

 

三びきのやぎのがらがらどん (世界傑作絵本シリーズ)

三びきのやぎのがらがらどん (世界傑作絵本シリーズ)

 

 

 

 

 

【2085冊目】吉増剛造『我が詩的自伝』

 

 
こないだ読んだ本で、吉本隆明が言っていた。「本当のプロの詩人と言える人は、谷川俊太郎と、吉増剛造と、この前死んだ田村隆一と、この三人しかいねえかな」

田村隆一谷川俊太郎の詩には触れたことがあったが、吉増剛造は、名前を知っている程度だった。現代詩、前衛詩の最先端にいる人物とは聞いていたが、あえて手に取ろうと思うことはなかった。だが、吉本隆明にここまで断言されたら、読まないワケにはいかない。

本書はタイトルのとおり、吉増剛造の自伝である。自身の詩もふんだんにちりばめられているため、入口としてはよさげである。だが、読んですぐぶっとんだ。このエネルギー、この「突っ張った魂」はスゴイ。誰かに似ているような……そうか、岡本太郎だ。だが、さすが「詩人」だけに、使われているコトバは数段研ぎ澄まされている。

1939年に生まれたということは、幼児期を戦争のさなかで送り、小学校に入るころ、終戦を迎えたことになる。つまり、幼少期がことごとく「非常時」だった。そのためだろうか、吉増にとってはどうやら「詩っていうのはすなわち、非常時そのものだった。(略)だから上手・下手を超えちゃうんだよね」ということになるようなのだ。「本当に大きなビジョンが得られたなら、非常時性と実存と火の玉性みたいなぎりぎりのところまで行かないと、自分の魂に対して申しわけがないという思いの方が強い」

こんなふうに生み出される詩であるから、これはやはり並大抵ではない。精神を絞りつくしたさらにその先にある、ぎりぎりの臨界点まで言葉を煮詰め、研ぎ、削る。だから吉増剛造の詩は、どれものっぴきならない。書く側も、そして読む側も、いっさいの逃げ場がない。その「極め方」を、吉増は「言葉を枯らす」と表現する。

「限界にさわる言語のぎりぎりのところまで行くために言葉を枯らすようにする。コミュニケーションの回路を閉ざそうとする。そのことを「枯らす」と仮に言って、それが「歌」と「詩」の根源にあるものに近いというところまではつきとめましたね」

 

「「読み手のいる場所」を枯らそうとしている」

 

「言葉を薄くする、中間状態にする、言葉自らに語るように仕向けるという、まあ「言語の極限」を目指すということに収斂するのでしょうが、それを「枯らす」という一語で代表させようとしたのですね」

 

「外国語の中でむしろ日本語だけが骨みたいになって立ってくるようなところへ心を運んでいくわけね。そうしないと詩なんて出てこないからね」

 

おそろしい詩人である。その極限形態としての作品が『怪物君』。この本もすでに手元にあるが、問題は、これを「ふつうの日本語」で説明し、表現できるか、ということだ。それにはあまりにも、この作品自体が「言葉の極北」にたどり着いてしまっている。まあ、この本については、またいずれ。

 

怪物君

怪物君