自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【2084冊目】ヒュー・G・ギャラファー『ナチスドイツと障害者「安楽死」計画』

 

ナチスドイツと障害者「安楽死」計画

ナチスドイツと障害者「安楽死」計画

 

 
ナチス・ドイツがユダヤ人に何をしたか、多くの人が知っている。名著『夜と霧』をはじめ多くの本が書かれ、『シンドラーのリスト』のような映画もつくられた。だが、ナチス政権下のドイツで障害者や病人に何が起きたか、詳しいことはほとんど知られていない。「ユダヤ人と同様、障害者も強制収容所に送られ、殺されました」程度の但し書きで済まされているのが現実だ。この扱いの差が、差別でなくてなんだろうか。

本書は、ナチス・ドイツが障害者たちに何をしたか、その実態を克明に調べ上げた一冊だ。犠牲者は20万人以上と言われている。対象となったのは、「生きるに値しない」と判断された人々だ。だが、誰が「生きる価値」を判断したのか、ごぞんじだろうか? 医者たちである。

実はここが、ユダヤ人虐殺との大きな違いであった。「アイヒマン裁判」が明らかにしたとおり、ユダヤ人の殺害は国家ぐるみで行われた。だが、障害者たちの殺害は、主に医者たちによって「担われた」のだ。ナチスが行ったのは、医者に対して「障害者の生命を絶つ許可を与え、免責を行う」ことだった。ちなみに、ナチスが行ったもう一つの手立ては、障害者の殺害を秘密にすることによって、社会的な非難を医者が受けずに済ませることだった。

ナチスは、医者に殺人を命じたのではなかった。殺人への制裁を解除したのである」

 

この言葉の意味は重大だ。ナチスは単に「責任を解除」しただけで、障害者を殺すように「命じた」わけではなかったのだ。現実に、障害者殺しを医者が強要されることはなく、やらなかったとしても何のペナルティも受けなかった。ドイツの医者たちは「殺すことが許された」とたんに、数年のうちに20万人以上の障害者たちをガス室送りにしたのである。

だが、医者だけが特別なのだろうか。たしかにこの事件は、医者の患者に対するゆがんだ支配感覚のあらわれなのかもしれない。だが、おそらくそれだけでは、これほどの犠牲者数は説明がつかない。医者たちの決定を後押しする「何か」が、そこにはあったはずである。

 それは、ナチス・ドイツのもっていた「健康志向」であった。ナチスはこれまでのどんな国家にもまして、国民の健康向上に意を払った政権だった。運動や健康食が奨励され、煙草やアルコールは追放され、学校での検診、家庭医の導入が進められた。こういう国家では、医者は絶大な権威を有する存在となる。

問題は、こうした健康志向が優生思想と結びついたことだった。健康な遺伝子を子孫に伝えるということは、「不良な」「劣勢な」遺伝子は淘汰されるべきだ、という発想に容易につながる。ナチスの医者はこう言ったそうである。「国家の最上の義務は国民の中でも健康かつ遺伝的に健全な者にだけ生命と生活を与えることである。人種的に純粋で遺伝的に健全な民族を永遠に長らえさせるのが目的である」

おわかりだろうか。ナチスが医者に対して障害者殺害を奨励したのではない。逆なのだ。医者の思想が国家として体現されたのがナチスだったのである。著者の言い方に従えば、ナチス「政府が「医者の命令」に従って運営されていた」のだ。

だが、ナチスや医者だけをわたしたちは悪者にできるだろうか。ナチスが奨励したような健康志向を、わたしたち自身はもっていないといえるだろうか。その健康思想は、不健康な者、病気や障害をもっている者を存在ごと否定するような発想を、その裏側にもっていないと言い切れるだろうか。

他人事ではないのである。いつの世も障害者差別がなくならないのはなぜなのか。ユダヤ人差別がナチス以前から続いていたように、優生思想も障害者差別も、ナチス以前からずっと存在していたし、今も存在している。「津久井やまゆり園」で障害者を殺害した男の「思想」だって、突然出現したものではない。ありえないことではあるが、今の世で障害者の殺害が免責され、法的にも社会的にも非難されないことが確約されたとしたら、ナチス時代と同じことが起きないと誰が断言できるだろうか。

なお、ナチスが行った障害者殺害の「許可」に対して、強い非難の声をあげたのが教会であったことを、最後に指摘しておきたい(ちなみに、同じような非難の声を、彼らがユダヤ人虐殺に対して挙げることはなかったようだが)。中でもミュンスターのフォン・ガーレン司教の行った説教は、現代の日本人の心にも響くものをもっている(「自分がそうなったら」という理由づけにはいささかひっかかるものを感じるが)。一部抜粋の上、引用したい。

「機械は壊してもかまわないし、家畜も役に立たなくなったら屠殺される。しかし、我々が取り上げているのは人間、仲間の市民、兄弟姉妹だ。貧しい人、病人、非生産的な人、だから何だと言うのか。生きる権利を捨ててしまったのか。皆さんや私が生きる権利があるのは生産的なときだけなのか。他人が生産的と見なしているときだけなのか。「非生産的な同胞市民」を殺してもかまわないという原則がいったんできあがってしまえば、我々自身が老いて弱まったときに災いが起こる。(略)「非生産的」な同胞を殺すのが合法となれば、現時点では身を守るすべもない精神病者だけが対象となっているとしても、非生産的な人間、不治者、傷病兵、仕事で体がきかなくなった者すべてを、老いて体が弱くなったときには我々全員を殺す基礎ができてしまう」

 

【2083冊目】フィル・クレイ『一時帰還』

 

一時帰還

一時帰還

 


海兵隊として1年間をイラクで過ごした著者が、みずからの戦争体験をもとに綴った連作短編集。著者は帰国後、大学で創作を学んだとのことで、自らの体験というリアリズムと小説としての虚構が混然一体となり、ちょっと他では見られない戦争小説集になっている。これに匹敵するのは、アメリカならティム・オブライエン、日本なら大岡昇平か。

戦争は、戦地だけでは終わらない。最初の作品「一時帰還」は、いきなりそのことを突きつけてくる。自宅の椅子に座っていても、考えがまっすぐに出てこない。故郷のことを考えようとしても、思い出すのは「冷凍庫に置かれた人体の一部」「檻に入れられた知的障害の男」「壊れたテレビ」「回教徒の死体」「血まみれになったアイコルツ(戦友の名前)」「無線で通信している中尉」。妻と一緒に買い物に出ても、イラクの市街地を移動するときの警戒心が抜けず「銃を握ろうとして、そこにないのでビクッとするといったことを十回も繰り返す」。プライス三等軍曹の中で、戦争はいつになっても終わらない。

作品によって、視点も場所もさまざまだ。遺体安置業務に関わった兵士。心理作戦に従事したコプト教徒。兵士の悩みを聞く従軍牧師。そこには「イラク戦争は正しかったかどうか」といった単純な問題は(ジョークの種として以外は)そもそも意味をなさない。語られているのはブッシュ大統領でもなければサダム・フセインでもビンラディンでもなく、無名の一兵士がイラクで送った日々なのだ。


安全なところからわかったような口ぶりで語られる言葉ほど、戦争のリアルから遠いものはない。アメリカで開かれたある反戦集会について、ホーパート二等軍曹はこう話す。

「本当に起きたかどうかの問題じゃない。クソみたいな出来事のなかには、絶対に話しちゃいけないことがあるんだ。俺たちは、こことはまったく違う場所で暮らしていた。あの聴衆のなかのヒッピーたちには想像もつかないところだ。ラマディの街を歩いていて、ある建物から銃撃されたら、その建物にいる人たちの命と自分の命を天秤にかけなきゃならない。あのクソ野郎どもはそんな経験をしたことがないからって、自分が善人だと思ってやがる。ああいう経験は、その場にいなかった人に話して聞かすことはできない。自分だって、どんなだったかほとんど覚えてない。だって、ほとんど意味を成していないんだ。あんなクソのなかで何か月も暮らし、戦い続け、それでも気がふれる人間がいない振りをするなんて、それこそ本当にクレージーだ」(「アザルヤの祈り」より)

 


太平洋戦争に従軍した私たちの祖父たち、曾祖父たちも、きっと同じような気持ちなのだろう。だが、だからこそ戦争の記憶は経験した世代とともに消え去って、やがて新たな戦争がはじまるのかもしれない。この難問を解く方法は、果たしてあるのだろうか。

結論はない。正義も、勝利も、どこにもない。多くの人の人生も、精神も、根底から破壊してしまう。それこそが戦争なのだ。フィル・クレイ、書きにくいことばかりを、よくぞ書いてくれた。

【2082冊目】司馬遷/宮崎市定訳『史記列伝抄』

 

史記列伝抄

史記列伝抄

 

 
東洋史学の泰斗、宮崎市定氏の名訳による『史記』ダイジェスト。氏自身の史記に関する論考も後半にまとめられていて、『史記』をその内外から堪能できる。

読み始めて驚いたのは、その訳文の読みやすさ。日本語としてこなれているだけでなく、リズムと勢いがあって、とてもじゃないが学者の翻訳とは思えない。試しに他の訳をいくつか覗いてみたが、リーダビリティは段違いである。

だが著者によれば、そもそも『史記』の文章の多くは、民間の語り物を取捨選択、編集の上で引き写したもの。もともとは市井の語り部が民衆に向かって何度となく語ったものなのだから、講談のようなリズムと勢いがあって読みやすいのも当たり前なのだ。

史記』が純粋な歴史書というより、歴史と文学の間に存在するというのもそういうことで、確かに厳密な考証には耐えられない部分も多いのかもしれないが、その分、何といっても「お話」としてめっぽう面白いのだ。日本でいえば『平家物語』や『太平記』のようなもの、あるいはいっそ『古事記』か。

だが、『史記』が面白い理由はそれだけではない。描かれているなまなましい人間模様が、現代の会社のような組織にもあてはまるようなものばかりなのである。特によく出てくるのが、すぐれた能力をもつ策士が君主に重用されて、その存在を妬む側近があることないこと君主に吹き込み、アホな君主がその誹謗中傷を真に受けて策士を追放したり殺したりする、というパターン。まあ要するに「会社組織あるある」のオンパレードなのだ。

「貴人の為と思って、その信頼する大臣の欠点を論ずると、これは離間の策だと疑われる。若し位の低い臣下の長所を申し立てると、これはその為を計って恩を売ろうとしているのだと疑われる。貴人が愛する人を賞めれば、ひそかに貸しを造っておくのだと疑われ、その憎む人の欠点を論ずれば、これは俺様を試しているなと疑われる。単刀直入に事を論ずれば、こいつは物知らずだとして、罵倒されかねない。言葉を多くして飾りたてれば、冗長だとして飽きられる。規則に従ってひたすら無理なく事を述べれば、臆病者で独創がないと見下される。注意を惹くために誇張した言い方をすれば、こいつは野人で礼を知らぬとばかにされる。これらもろもろの説くに難きことは是非弁えておかぬと大へんな事になる」(老子韓非列伝 第三より)

 


これだけでもそのままサラリーマン処世術の世界だが、ここから先もたいへん面白いので、長くなるが続けて引用する。

「およそ遊説に当って、まず第一に心得ておかねばならぬのは、相手が敬っている人があればそれを持上げ、嫌っている人があれば、くそみそに貶すべきことだ。相手が計画を立てて得意がっている時は、もし失敗しても咎めだてしてはならぬ。相手が勇気を出して決断した事については、反対を唱えて怒らしてはならぬ。相手が力自慢する時には、それ以上の話を持ち出して、凹ませてはならぬ。相手が不似合な事を計画して仲間に引込んだ人、不似合いな人に感心して一緒に仕事を始めた人に対しては、お世辞を言っておくがよく、中傷してはならぬ。相手が同じ失敗を一緒にやった人については、それは失敗ではなかったと公けに保証してやるべきだ。本当の忠義者は、決して君主の心を逆撫でする諫言などはせぬものだ……」(同上)

 


まだまだ続くが、このへんにしておこう。2000年前の文章とはとても思えない。いつの世も、組織での処世や上司との付き合いは、いろいろと大変なものなのだ。

【2081冊目】梅棹忠夫『文明の生態史観』

 

文明の生態史観 (中公文庫)

文明の生態史観 (中公文庫)

 

 
進歩史観」は、進化を一本道と考え、それぞれの国や社会の違いは、同じゴールに向かう途中の発展段階の違いであるというふうに考える。一方「生態史観」は、サクセッション(遷移)ということを考え、多元的で並列的なかたちで歴史を捉える。「一定の条件のもとでは、共同体の生活様式の発展が、一定の法則にしたがって進行する」と著者は説明している。

ちなみに、本書は名著とされているが、本書で提示されている「生態史観」という方法がどれほど広く認められ、定着しているかというといささか疑問である。おそらく本書の「キモ」は、結論として示された着想より、その背後にある方法論にあると思うのだが。

内容についていえば、著者は日本を「アジアの一部」と見すぎることに対して、警告を発している。同じアジアといっても内実は多様である。とりわけ日本はきわだった特徴をもっており、それは西洋でいえばイギリス、フランスあたりと共通する部分が多いというのである。

著者によれば、旧世界(いわゆるユーラシア大陸)は大きく第一地域と第二地域に分けられる。「第一地域」は高度な近代文明をもっており、かつては封建制を体験し、それが社会構造の中に、ブルジョワ(分厚い中間階層)として存在する。政教分離が早くに起こったのも第一地域であった。日本、イギリス、フランス、ドイツあたりはここに入る。

「第二地域」のほうは、封建制を経験せず、専制的な大帝国によって支配され、場合によってはすさまじい革命を経験してきた。中国、ロシア、インド、イスラム諸国はすべてここに入る。共通点は、ユーラシア大陸の比較的中央寄りにあって、それゆえ中央アジアあたりに勃興した騎馬軍団の蹂躙を受けたということ。逆に言えば、第一地域はモンゴルをはじめとした強力な軍隊の支配を受けていない。

だから日本は「ほかのアジアとは違う」のであって、だからこそ、たとえば日本の近代化を他のアジア諸国が真似ようとしても、なかなかうまくいかないということになる。その理由は、明治維新以前からの社会や文化の基盤が日本には存在するから。明治期以降に流入した西洋文明は、要するにこの基盤とフィットしたのである。イギリスやフランスなど、ユーラシア大陸の反対側ではぐくまれたものが日本と親和性が高かったのは、繰り返しになるが日本がイギリスやフランスと同じ「第一地域」に属しているからなのだ。

この捉え方は一歩間違うと単なる「日本優越論」に堕してしまうが、本書の提供するスコープは、さすがにそんな安易なものではない。何といっても、世界史を学ぶ上でもっとも分かりづらく、教科書にもあまり記述がない中央アジアあたりの騎馬民族国家に着目することで、日本からヨーロッパに至るまでの巨大なエリアを一望できる視野を提供しているのだ。その鮮やかな論理展開は、ぜひ本書を読んでほしい。著者の思想と方法が本格派であって、決して「日本スゴイ」「日本立派」「日本マンセー」と叫ぶ手合いではないことがよくわかる。

本書には他にも、東南アジアやインド、アラブ世界をめぐる卓抜な考察がいくつも収められており、1950年代に書かれたとは思えないほど、文章は的確でわかりやすい。特に、東洋や西洋に対する「中洋」という呼び方は素晴らしいと思う。中央アジアイスラム諸国、インドや東南アジアの重要性を、この時代にここまで指摘した書籍はあまりないのではなかろうか。

【2080冊目】遠田潤子『雪の鉄樹』

 

雪の鉄樹 (光文社文庫)

雪の鉄樹 (光文社文庫)

 

 
この人の小説を読むのは初めて。名前すら知らなかった。

読み始めて驚いたのは、そのずばぬけた筆力。読み手をしっかり捕まえたまま、この重いテーマを最後まで読ませる、ブルドーザーのようなパワーがある。とりわけ、過去の「事件」の真相をギリギリまで明かさず引っ張るので、主人公をこれほど「贖罪」に駆り立てる過去の罪とはいったい何だったのかが気になって、読むのを止められなくなってしまうのだ。

だから、amazonのレビューがおおむね高評価なのもわかる気がする。重いし、いろいろ考えさせられるのだが、そのわりに一気に読まされる。だが、正直に言うと、読後感としては不満が残る。肝心の、なぜ主人公の雅雪が13年にわたり「償い」を続けてきたかという点が、どうしても納得できないのだ。ここまでするほどのどんなコトが……とさんざん引っ張られた挙句の結末としては、正直、いささか拍子抜けだった。


ここからはネタバレになるが、そもそも自分が起こした事故でもないのに、ここまで罪を背負わなければならないのか、という肝心かなめの点で、イマイチ説得力を感じない。自分のことを理解してくれた大切な相手が起こした事故だから……というのはわからなくもないが、だからといって代わりに謝罪することが、果たして誰にとって何の意味があるのか。

それはまず、被害者の家族にとってひどい押しつけになる。直接の相手ではないから恨むわけにはいかないし、でも恨みの感情をぶつけたい気持ちはある。そこで、相手(特に遼平の祖母である文枝)は、恨むべき相手ではないにも関わらず恨まざるを得ないという、ある意味ひどく残酷な環境に置かれることになる。本書では文枝の雅雪への対応のひどさがこれでもかと描かれているが、私にはこれ、雅雪が加害者で、文枝は二重の意味での被害者になっているように感じた。罪悪感を感じつつ恨むという引き裂かれた状況を強制するなんてことが、果たして許されるのか。

そして、直接の加害者である舞子にとっても、雅雪のこの「押し付け贖罪」は残酷だ。なぜかといえば、こんなことをされてしまっては、舞子は被害者の家族に謝ることさえ許されなくなってしまうからだ。その代わりに舞子は、雅雪への消えない借りを背負うことになる。贖罪を封じられることほど、事件の加害者にとって残酷なことはない。

雅雪は確かに、愚直に贖罪を続けた。だがこの場合の愚直とは、単なる思考停止でしかない。本当に罪を償うには、当たり前のことだが、罪を償うべき人が、しかるべき相手に対して行うことが必要である。それが被害者のためであって、同時に加害者のためなのである。雅雪はこのことがわかっていない。だから押しつけの贖罪を行うことで、舞子による、舞子自身のためにあってしかるべき贖罪を封殺してしまっているのである。

ずいぶん長々と文句をつけてしまったが、本当にこの点だけが惜しくてしょうがないと思えるほど、本書の他の部分はよくできている。雅雪の父、祖父の異常さ、それを受けた雅雪自身の屈折の深さなど、これまで読んだどんな小説にも出てこなかった親子関係ではないか。才能というものの残酷さ、親から無視され、いないものとされることの過酷さも、実に巧みに描かれている。だからこそ、プロットの中核にあたる部分の「ゆるみ」が、どうにももったいないのである。「贖罪」をストーリーの核にもってくるなら、せめてマキューアンの『贖罪』くらいの説得力はほしかった。

 

贖罪

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