【2085冊目】吉増剛造『我が詩的自伝』
こないだ読んだ本で、吉本隆明が言っていた。「本当のプロの詩人と言える人は、谷川俊太郎と、吉増剛造と、この前死んだ田村隆一と、この三人しかいねえかな」
田村隆一と谷川俊太郎の詩には触れたことがあったが、吉増剛造は、名前を知っている程度だった。現代詩、前衛詩の最先端にいる人物とは聞いていたが、あえて手に取ろうと思うことはなかった。だが、吉本隆明にここまで断言されたら、読まないワケにはいかない。
本書はタイトルのとおり、吉増剛造の自伝である。自身の詩もふんだんにちりばめられているため、入口としてはよさげである。だが、読んですぐぶっとんだ。このエネルギー、この「突っ張った魂」はスゴイ。誰かに似ているような……そうか、岡本太郎だ。だが、さすが「詩人」だけに、使われているコトバは数段研ぎ澄まされている。
1939年に生まれたということは、幼児期を戦争のさなかで送り、小学校に入るころ、終戦を迎えたことになる。つまり、幼少期がことごとく「非常時」だった。そのためだろうか、吉増にとってはどうやら「詩っていうのはすなわち、非常時そのものだった。(略)だから上手・下手を超えちゃうんだよね」ということになるようなのだ。「本当に大きなビジョンが得られたなら、非常時性と実存と火の玉性みたいなぎりぎりのところまで行かないと、自分の魂に対して申しわけがないという思いの方が強い」
こんなふうに生み出される詩であるから、これはやはり並大抵ではない。精神を絞りつくしたさらにその先にある、ぎりぎりの臨界点まで言葉を煮詰め、研ぎ、削る。だから吉増剛造の詩は、どれものっぴきならない。書く側も、そして読む側も、いっさいの逃げ場がない。その「極め方」を、吉増は「言葉を枯らす」と表現する。
「限界にさわる言語のぎりぎりのところまで行くために言葉を枯らすようにする。コミュニケーションの回路を閉ざそうとする。そのことを「枯らす」と仮に言って、それが「歌」と「詩」の根源にあるものに近いというところまではつきとめましたね」
「「読み手のいる場所」を枯らそうとしている」
「言葉を薄くする、中間状態にする、言葉自らに語るように仕向けるという、まあ「言語の極限」を目指すということに収斂するのでしょうが、それを「枯らす」という一語で代表させようとしたのですね」
「外国語の中でむしろ日本語だけが骨みたいになって立ってくるようなところへ心を運んでいくわけね。そうしないと詩なんて出てこないからね」
おそろしい詩人である。その極限形態としての作品が『怪物君』。この本もすでに手元にあるが、問題は、これを「ふつうの日本語」で説明し、表現できるか、ということだ。それにはあまりにも、この作品自体が「言葉の極北」にたどり着いてしまっている。まあ、この本については、またいずれ。