自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【2058冊目】フィリップ・ポンス『裏社会の日本史』

 

裏社会の日本史

裏社会の日本史

 

 
ここに描かれているのは、目に見える日本のすぐ裏側に貼りついた「もう一つの日本」である。正統ではなく異端の、中心ではなく周縁の日本。主役は社会の周縁に生きる被差別民や貧民、そしてヤクザなどのアウトローだ。

著者はル・モンドの東京支局長とのことだが、その知識の密度と目配りの広さには驚かされる。被差別民から日本の芸能の多くが生まれたことも、博徒たちが自由民権運動に関わっていたことも、しっかり書かれている。日本人にはあまりに自明であって、その割にあえて語られることのないこと(例えば、映画などでは弱者の味方然として描かれているヤクザが、実際には自民党の手先であって権力の使い走りであること)もきちんと指摘されているのは、外国人ゆえの視点なのか、あるいはまっとうなジャーナリストとしての姿勢のあらわれだろうか。

貧困については、日本のドヤ街(著者のいう「どんづまりの街」)や被差別部落が、西洋のスラムのように画然と区切られているのではなく、都市の中に点在しているという指摘が興味深かった。だからといって、そこが都市の中に溶け込んでいるというわけではない。ドヤ街の境界は「物質的なものというより、精神的なもの」と著者は書く。明確に区切られていないことが、かえってその存在を見えづらくし、問題意識を持ちにくくさせているのかもしれない。

やくざについては、先ほど書いたような「権力の手先」としての側面とともに、「社会の中の仲介者としての役割」を果たしてきたことをあわせて指摘しており、このあたりは著者のバランス感覚が感じられるところである。「日本社会にはグレー・ゾーンがあって、きめ細かなネットワークによりその一部をやくざが担い、陰の調停役の機能を果たし続けている」のである。これを敷衍したのが「日本の暴力団は、病理的なものに発しているというより、社会的生理に発している」という指摘だろう。

問題は、こうした貧困や暴力団の存在が、確実に社会の中に存在するにも関わらず、徐々に見えづらくなってきていることだ。いわゆる暴力団新法は暴力団を排除したように見えるが、実際はその活動を捉えづらくしたに過ぎない。貧困にしても、あからさまなスラムはなくとも、そのすそ野は確実に広がっている。本書はその存在をあらためて可視化したのみならず、社会の周縁から日本の歴史と現在をあらためて捉えなおそうとする一冊である。

【2057冊目】岩波明『狂気の偽装』

 

狂気の偽装

狂気の偽装

 

 
PTSD、ゲーム脳アダルトチルドレン、殺人者精神病……。巷にはびこるうさんくさい「症状名」を一刀両断するかたわら、ホンモノの「心の病」のすさまじい実態を明らかにする一冊。

例えば、PTSD。名前だけはすっかり有名になったが、実際にPTSDを訴える人の中には、軽微な交通事故や厳しい叱責といった「トラウマ」が原因で発症したと訴えるケースも多いらしい。

だが、本来のPTSDとは「死」と結びついた疾患である、と著者はいう。「目の前に「死」の影を垣間見たものだけが、そう診断されるし、この病名を名乗る資格がある」。例えば戦争である。日本で著者が接した数少ない「本物のPTSD患者」は、地下鉄サリン事件の被害者であった。今なら東日本大震災のような大規模災害に見舞われたような場合が該当するだろうか。

むしろ「トラウマ」を過度に強調することは、ありもしない過去の虐待体験を「想起」させ、かえって病気を生み出してしまうことがある。アダルト・チルドレンなど、性格特徴を並べてみれば誰にでもあてはまってしまうようなものばかり。著者はこれについても「空疎な内容しか持たない概念」「何にでも使用可能な危険な概念」と容赦ない。

福島章氏による「殺人者精神病」も「明らかに行き過ぎ」の命名で、森昭雄氏の「ゲーム脳」に至っては「批判する価値もないほど無意味で根拠のないもの」「ただの戯れ言」「脳波の基本をまったく知らない」と全否定である。

まあ「殺人者精神病」はさすがにどうかと思うが、PTSDなどについては、どんな状況が「トラウマ」となるかはその人次第という面もあるような気がする。アダルトチルドレンについても、「万能症状」めいたうさんくささは同感だが、全否定するのはいささか行き過ぎのような。

一方で、もちろん精神疾患には深刻で重大なものも数多く存在する。本書のメインテーマは、むしろ著者自身が臨床の現場で接した、さまざまな精神疾患の実情だ。

うつ病境界例自傷・自殺に依存症と、その実態は壮絶の一言。「心のケア」とか「癒しブーム」などという「きれいな」言葉で語れない、本当の「心の闇」がここにある。特に、日本特有の現象というネット心中をめぐる考察は興味深い。著者はこんなふうに書いている。

「彼らの心を語るには「空虚」という言葉が、やはり一番適切なのかもしれない。こう言うとそんなことはわかっている、わざわざ言うほどのことではないと言われるかもしれない。しかし長い歴史を通して、現在の日本ほど本質的に空虚な社会は、非常に稀なのではないか。
 それでも多くの人は、何とか折り合いをつけて生きている。しかしこの空虚さと正面から向き合ってしまったのが、ネットパクター(注:ネット心中者のこと)なのであろう」

 



ところでここ数年、精神科への受信患者数は増加の一途をたどっている。その一因として著者が指摘するのが、外来の開業精神科医の増加政策だった。厚労省の目的は長期入院者を地域に戻すための受け皿づくりだったのだが、実際にはこれが新たな患者の「掘り起こし」につながっているという。もちろん実際に精神疾患に悩む人が増えていることもあるだろうし、町中に精神科のクリニックがたくさんできることで、これまでなかなか医療につながれなかった人がつながれるようになったというメリットもあるだろう。だが一方で、病人そのものが「作り出されている」ことも否めない。

それでも著者は、訪れる患者のために医師が力を尽くすことは重要なことだと言う。なぜなら「現在の日本において、苦しみを抱える個人が自分の問題を隠し事なく語ることができるシステムとして、コスト面においても内容面においても、病院よりも「まし」なものは存在していないから」。う~ん、なるほど。今や病院は、実際にその機能を果たしているかどうかは別として、欧米の教会のような「精神の受け皿」となっているのかもしれない。

【2056冊目】ニール・ゲイマン『アナンシの血脈』

 

 

 

 
アナンシというネーミング、てっきり著者の造語かと思ったら、西アフリカの神様(というより、英雄)の名前らしい。もっとも本書に出てくるアナンシは、名前と「神様である」という以外はまったくの別物だ。

死んだ自分の父親が、実は「神」だったと知ったファット・チャーリー。クモに頼んで呼び寄せたきょうだいのスパイダーは、冴えないチャーリーとは正反対の人物で、しかも徐々にチャーリーの人生を乗っ取り始める。スパイダーを追い払おうと、チャーリーは「世界のはじまり」に赴くのだが……

コミカルでスピーディーな展開の中で、現実と幻想が絡み合い、とんでもない小説世界が目の前に立ち現れる。この異様な世界観をどう表現すればよいのだろうかと思っていたら、解説で大森望氏がぴったりの言い方をしてくれていた。曰く「ハルキ・ワールドから意味ありげな深刻さを抜いてオフビートな笑いを増量するとゲイマン・ワールドになる感じ?」そうそう、そうなのだ。この現実と非現実(事実の世界と真実の世界、というべきか)の混ざり具合は、どこか村上春樹を思わせる。ただ、村上春樹はその世界観を独特のメタファーで演出するが、ゲイマンはユーモアとアイロニーで演出するのである。

誰が味方で誰が敵か、一瞬たりとも気の抜けないストーリーテリングもお見事。それでいてしっかりと「物語」にもなっている(神話に通じるような、ホンモノの「物語」だ)。クライマックスはいろんな意味でご都合主義満載だが、それを読ませるのも筆力のうちであろう。映画化されてもおかしくないファンタジック・エンターテインメント。

【2055冊目】佐々木正人『アフォーダンス』

 

新版 アフォーダンス (岩波科学ライブラリー)

新版 アフォーダンス (岩波科学ライブラリー)

 

 



アフォーダンスって、知っていますか。

もとになっているのは、アフォード(afford)という動詞。辞書を引くと、「与える」「もたらす」という意味が載っている。アフォーダンスはその名詞化。ジェームズ・ギブソンの造語である。では、誰(何)が、誰に、何を与えるのか。

 

実はこれは、知覚と行動に関する見方を180度転換する発想なのだ。例えばこの記事を、あなたはパソコンやタブレット、あるいはスマホの画面を通じて見ているだろう。だが実は、あなたが見ているこの画面が、実はあなたの「見方」を規定しているのである。

 

どういうことか。例えば、目の前の道をふさぐように、一本の棒が(走り高跳びの棒みたいに)横渡しにされているとする。この棒を「高さ何センチメートルか」とは、ふつうあまり考えない。あなたがその道を通ろうとしているのであれば、「棒の下をくぐれそうだ」「棒をまたいで進めそうだ」など、「自分込み」で目の前の棒を認知するはずである。

 

つまり私たちは、単に外の環境をメカニカルに知覚しているのではない。環境は私たちに、何らかの情報を与える(アフォードする)。私たちはその「与えられた情報」をもとに、その環境を知覚するのだ。そしてたいていの場合、その知覚は、何らかの行動(さっきの例でいえば「くぐる」「またぐ」など)と結びついている。

 

アフォーダンスは環境の事実であり、かつ行動の事実である。しかし、アフォーダンスはそれと関わる動物の行為の性質に依存して、あらわれたり消えたりしているわけではない。さまざまなアフォーダンスは、発見されることを環境の中で「待って」いる」(p.73)

 


環境とは、ただ単に私たちの外側にあるものではないのである(正確に言えば、私たちはそのように環境を認識できない)。環境は私たちに何らかの情報をアフォードし、私たちはそれをもとに知覚し、行為する。それは一種の相互作用であって、環境とは「私たち込み」で存在するのである。まったく、スゴい発想の転換だと思いませんか。

単純な発想の転換かもしれないが、世界の見方を一変させる力を、この造語はもっている。少なくとも、デカルト以来の二元論的で操作的な(つまりは近代的な)世界観とはまったく違うものの見方が、ここからは導き出されることになる。世界は私にアフォードし、私の世界認識をかたちづくっている。そして私やあなたも、環境の一部として周囲の人にアフォードし、影響を与えているのである。

【2054冊目】グレゴリー・ベイトソン『精神と自然』

 

精神と自然―生きた世界の認識論

精神と自然―生きた世界の認識論

 

 
その1:美術学校での講義。

ベイトソンは2つの紙袋を持参した。1つの紙袋から出したのは、ゆでたてのカニ。そして生徒に問うた。「この物体が生物の死骸であるということを、私に納得のいくように説明してみなさい」 次に、もう1つの袋を開けると、今度は大きな巻貝の殻が入っている。次の質問は当然「この螺旋状の巻貝が生き物の部分であったということが、どんな徴(しるし)からわかるか?」

その2:誰もが学校で習うこと。

 (1)科学は何も証明しない。
 (2)地図は土地そのものではなく、ものの名前は名づけられたものではない。
 (3)客観的経験は存在しない。
 (4)イメージは無意識に形成される。
 (5)知覚された世界が部分と全体に分かれるのは便利であり、必然なのかも知れぬが、その分かれ方の決定に必然は働いていない。
 (6)発散する連続は予測できない。
 (7)収束する連続は予測できる。
 (8)「無から有は生じない」
 (9)数と量とは別物である。
 (10)量はパターンを決定しない。
 (11)生物界に単調な価値は存在しない。
 (12)小さいこともいいことだ。
 (13)論理に因果は語りきれない。
 (14)因果関係は逆向きには働かない。
 (15)言語は通常、相互反応の片側だけを強調する。
 (16)「安定している」「変化している」という語は、われわれが記述しているものの部分を記述している。

その3:引用。

「説明とはトートロジーの網を張っていく作業である」

 「寄せ集めた部分の和が全体より大きくなるのは、部分の組み合わせが単なる加法ではなく、乗除ないしは論理積の形成に似た性格をもつからである」

 「精神はその中に何者も含まない――豚も人もサンバガエルも。あるのは観念(差異の情報)だけである」

 「関係とは常に、二重記述の産物である」

 「われわれに知り得るのは観念のみ、他には何一つ知り得ない」

 

その4:キーワード
 論理階梯
 ジェネティックとソマティック
 ストカスティック
 リニアルとリカーシヴ(直線的と再帰的)
 フィードバックとキャリブレーション
 メッセージとメタメッセージ

その5:まとめ
 世界は分断されてはいない。では、かかる世界をわたしたちはどう認識するのか。